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島津忠重 (第8版 [昭和3(1928)年7月] の情報)

位階・勲等・功級正三位、勳三等
爵位・身分・家柄公爵、舊鹿兒島藩主
職業貴族院議員、海軍中佐、海軍々令部參謀兼海軍大學校教官
性別男性
生年月日明治十九年十月 (1886)
親名・続柄 島津忠義の四男
家族妻 伊礎子 明二一、一生、公爵德大寺公弘妹
男 忠秀 明四五、三生
女 經子 大二、八生
記述部分(略伝)當家は源賴朝の庶子島津豐後守忠久の後なり忠久幼にして惟宗廣言に養はれ惟宗姓を冐し薩隅日三國の守護職となる忠久より十六世修理大夫義久に至り九州を席卷せしも豐臣秀吉の爲に征せられ薩隅二州及日向二郡を領す後義弘家久を經て家久九代の孫贈正一位齊彬に至る齊彬尊王の志厚く公武合體の説を唱へたるも不幸病の爲に早世す弟久光の子忠義其後を承け七十七萬八百石の封を襲ぎ元治元年英艦鹿兒島に來襲するや之と戰ひて神州の威名を揚ぐ爾來忠誠の洵を効し維新の大業を翼賛す明治十七年公爵を授けられ從一位勳一等に敍せらる
君は忠義の四男にして公爵島津忠承の從兄なり明治十九年十月を以て生れ同三十一年襲爵す同三十七年學習院中等科を卒業し海軍兵學校に入り海軍少尉に任じ大正九年海軍大學校を卒業し累進して海軍中佐に陞り現時海軍々令部參謀兼海軍大學校教官たり又貴族院議員にして花卉同好會々長を兼ぬ
家族は尚二男晃久(大三、一〇生)三男矩久(同六、一生)四男齊德(同八、九生)弟康久(明二八、一生)同妻肅子(同三四、三生、公爵島津忠承姉)及其一男あり
姉常子(同七、三生)は故山階宮菊麿王妃に同俔子(同一二、一〇生)は久邇宮邦彦王妃にならせられ同充子(同六、二生)は伯爵松平直亮に同知子(同八、八生)は伯爵德川達孝に同貞子(同一一、二生)は伯爵久松定謨に同正子(同一八、九生)は公爵德川家達長男家正に妹爲子(同三〇、五生)は侯爵德川賴貞に嫁し弟忠備(同二四、五生)は分家して男爵を授けられ同忠弘も亦分家して男爵を授けられ其長男齊視當主にして同久範(同二七、一生)は伯爵島津忠麿の養子となり當主たり
住所・電話番号東京市外大崎町下大崎二三四 電高輪三七八、三七九
参照人物(親類)久邇宮家、山階宮家、公爵島津忠承、公爵德大寺公弘、侯爵德川賴貞、伯爵島津久範、伯爵德川達孝、伯爵久松定謨、伯爵松平直亮、男爵島津忠備、男爵島津齊視德川家正、※公爵西園寺公望、※公爵鷹司信輔、※侯爵小松輝久、※侯爵佐竹義春、※伯爵眞田幸治、※伯爵中院亨、※子爵阿部正一、※子爵加藤泰通、※子爵相良賴綱、※子爵松平賴孝、※男爵島津忠夫、※男爵島津忠彦、※男爵島津忠丸、※男爵島津隼彦、※男爵住友吉左衞門、※男爵高千穗宣麿、※男爵德大寺則麿
参照次数29 (※なし12)
読みしまず ただしげ
別名
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