久松定謨 (第8版 [昭和3(1928)年7月] の情報)
位階・勲等・功級 | 從二位、勳三等 | |
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爵位・身分・家柄 | 伯爵、舊伊豫松山藩主 | |
職業 | 豫備陸軍中將、愛媛縣多額納税者 | |
性別 | 男性 | |
生年月日 | 慶應三年九月 (1867) | |
親名・続柄 | 松平勝實の二男 | |
家族 | 妻 貞子 明一一、二生、公爵島津忠重姉、華族女學校出身 男 定武 明三二、四生、正五位、經濟學士三菱銀行員 婦 春枝 明四一、三生、二男定武妻、伯爵小笠原長幹二女 男 定孝 明三四、一二生、學習院高等科出身 婦 韁子 明四一、一〇生、四男定孝妻、伯爵前田利男養妹、女子學習院出身 | |
記述部分(略伝) | 當家は菅原道眞十世の孫參議高辻長成の男少納言氏長の後胤なり氏長十世の孫佐渡守久松定俊の三男左近衞權少將定勝は實は德川家康の異父弟にして關ケ原の役遠州掛川城を固守せる功を以て三萬石を賜はり元和三年勢州桑名十萬石に移り寬永十二年豫州松山十五萬石に轉ずそれより十四傳して先代定昭に至る君其後を承く 君實は舊幕臣松平勝實の二男にして慶應三年九月を以て生れ明治五年定昭の養子となり家督を相續し同十七年伯爵を授けらる同十六年佛國に留學しサンシール兵學校を卒業し同二十二年陸軍步兵少尉に任じ大正九年累進して陸軍中將に陞り豫備役被仰付其間佛國公使館附武官步兵第三近衞步兵第一各聯隊長步兵第五同第一各旅團長等に歷補せり現時松山市に住居し愛媛縣多額納税者たり 家族は尚孫定成(大一五、一〇生、二男定武長男)あり 二女冝子(明二九、一〇生)は子爵小笠原恒に三女基子(同三〇、一一生)は子爵久松勝親に四女輝子(同四二、一生)は子爵松平親義に嫁せり | |
住所・電話番号 | 松山、一番町 | |
参照人物(親類) | 公爵島津忠重、伯爵小笠原長幹、伯爵前田利男、子爵小笠原恒、子爵久松勝親、子爵松平親義、※公爵島津忠承、※公爵山縣有道、※侯爵尚裕、※侯爵德川賴貞、※伯爵島津久範、※伯爵津輕義孝、※伯爵德川達孝、※伯爵松平直亮、※子爵石川成秀、※子爵岩倉具明、※子爵小笠原長不、※子爵内藤信利、※男爵島津忠備、※男爵島津齊視、※男爵前田利功、※男爵三井八郞右衞門、※德川家正、※伴田六郞、※安田善助 | |
参照次数 | 26 (※なし6) | |
読み | ひさまつ さだこと | |
別名 |