德大寺實則 (第4版 [大正4(1915)年1月] の情報)
位階・勲等・功級 | 從一位、大勳位 | |
---|---|---|
爵位・身分・家柄 | 公爵、舊公卿 | |
職業 | 大臣禮遇、貴族院議員 | |
性別 | 男性 | |
生年月日 | 天保十年十二月六日 (1840) | |
親名・続柄 | 德大寺公純の長男 | |
家族 | 男 公弘 文久三、八生、正三位 婦 久子 慶應三、六生、長男公弘妻、伯爵松平直之姪 男 彬麿 明一五、一二生 婦 頴 明二二、一生、男彬麿妻、子爵北條氏恭四女 孫 實厚 明二〇、一二生、長男公弘男、正八位陸軍騎兵少尉 | |
記述部分(略伝) | 當家は藤原鎌足第十世の孫師輔の十男公季十五世の孫公實五男實能の後なり世々德大寺と稱す其子公能より十五代を經て公信に至り更に五世を經公城實祖を繼ぎ又更に二世を經て公純に至る 君は其長子にして侯爵西園寺公望伯爵中院通規男爵住友吉左衞門の實兄なり天保十年十二月六日を以て京都に生る明治元年參與職議定官内國事務局監督等に補し權大納言に任せられ爾後内廷知事麝香間祗候侍從長華族局長爵位局長官等に歷任し勅使及宣明使たること數回に及ふ明治十七年侯爵を授けられ同四十年勳功により大勳位に叙せらる久しく侍從長兼内大臣の重職にあり功を以て公爵に陞せらる大正元年先帝陛下崩御と共に閑地に就けり 男則麿(明一一、一二生)は大正二年十一月男爵を賜はり新に一家を創立し妹福子(嘉永四、九生)は子爵加藤泰秋に同仲子(安政四、五生)は子爵相良賴紹に同照子(文久二、一生)は子爵阿部正功に長女順子(明四、五生)は公爵鷹司凞通に二女祚子(同五、一一生)は侯爵佐竹義生に女治子(同一四、四生)は子爵松平賴孝に女伊楚子(同二一、一生)は公爵島津忠重に嫁し弟威麿(萬延元、五生)は京都府平民末弘千代浦の死跡を相續し二男宣麿(元治元、八生)は男爵高千穗家を襲き三女蓁子(明七、一二生)は三井高保長男高縱の未亡人たり | |
住所・電話番号 | 東京、豐多摩、千駄ケ谷町字千駄ケ谷四九八 電話芝二七七四 | |
参照人物(親類) | 公爵鷹司凞通、公爵島津忠重、侯爵西園寺公望、侯爵佐竹義生、伯爵中院通規、伯爵松平直之、子爵加藤泰秋、子爵相良賴紹、子爵阿部正功、子爵松平賴孝、子爵北條氏恭、男爵高千穗宣麿、男爵德大寺則麿、男爵住友吉左衞門、三井高保、※子爵小笠原長生、※子爵堀田正路 | |
参照次数 | 17 (※なし15) | |
読み | とくだいじ さねのり | |
別名 |