山縣有道 (第8版 [昭和3(1928)年7月] の情報)
位階・勲等・功級 | 正五位 | |
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爵位・身分・家柄 | 公爵、東京府華族 | |
職業 | 貴族院議員、侍從兼式部官 | |
性別 | 男性 | |
生年月日 | 明治二十一年二月 (1888) | |
親名・続柄 | 山縣伊三郞の長男 | |
家族 | 母 隆子 慶應三、九生、男爵加藤成之叔母 妻 鞭子 明二八、一二生、伯爵前田利男義妹、學習院女學部出身 男 有信 大七、八生 | |
記述部分(略伝) | 當家は先々代有朋より顯る有朋は舊山口藩士にして夙に勤王の義を唱へ寄兵隊の魁首として山縣狂介の名中外に喧傳す戊辰の役功あり尋で歐洲を視察し歸朝後陸軍中將に陞り陸軍卿に任じ徵兵令を起草し本邦徵兵制度の基礎を定む爾來陸軍内務司法各大臣參謀本部長等に歷任し内閣總理大臣たる事二囘又貴族院議員樞密院議長たり日清戰役には陸軍大將を以て第一軍司令官となり偉勳を奏し日露戰役には參謀總長として樞機を掌握し同三十一年元帥府に列す先之同十七年華族に列し伯爵を授けられ同二十八年侯爵に同四十年公爵に陞り正二位に敍し大勳位菊花頸飾章を賜ひ功一級を授けらる當代の元老にして軍政の首班たり先代伊三郞同藩士勝津兼亮の二男にして入りて其後を襲ぐ夙に佛國に留學し愛知縣書記官遞信省管船局長内務省地方局長同總務長官等に歷任し明治三十九年遞信大臣に親任せらる尋で貴族院議員に勅選せられ韓國副統監朝鮮總督府政務總監を經て關東長官となり樞密顧問官に任ず 君は其長男にして明治二十一年二月を以て生れ昭和二年九月家督を相續し前名辰吉を改め尋で襲爵仰付けらる明治四十五年東京外國語學校獨語科を卒業し獨逸に留學す現に侍從兼式部官にして貴族院議員たり 家族は尚長女美枝子(大六、五生)二女美智子(同一二、九生)弟七郞(明三九、四生)あり 妹壽美子(同二七、三生)は子爵竹屋春光に叔母松子(同一一、八生)は男爵船越光之丞に嫁し弟吉朗(同二六、一生)は山口縣人勝津莊太郞の養子となり叔父朋輔(同二二、七生)は絶家萩原氏を再興し弟三郞(同二四、一一生、法學士)五男五郞(同三〇、一〇生、經濟學士)は各分家し從弟有光(同三六、六生、男爵船越光之丞三男)も亦分家し男爵を授けられ叔母たつ(文久三、五生)は伯爵平田榮二の母たり | |
住所・電話番号 | 東京、麴町、富士見町六ノ一四 電九段三〇六 | |
参照人物(親類) | 伯爵前田利男、伯爵平田榮二、子爵竹屋春光、男爵加藤成之、男爵山縣有光、※伯爵久松定謨、※子爵石川成秀、※子爵岩倉具明、※子爵内藤信利、※子爵濱尾四郞、※男爵船越光之丞、※男爵前田利功、※男爵三井八郞右衞門、※加藤晴比古、※金子圭介、※榊保三郞、※俵國一、※伴田六郞、※中村精男、※增田義一 | |
参照次数 | 20 (※なし6) | |
読み | やまがた ありみち | |
別名 | 辰吉 |