松浦厚 (第8版 [昭和3(1928)年7月] の情報)
位階・勲等・功級 | 從二位、勳三等 | |
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爵位・身分・家柄 | 伯爵、舊肥前平戸藩 | |
職業 | 貴族院議員 | |
性別 | 男性 | |
生年月日 | 元治元年六月 (1864) | |
親名・続柄 | 松浦詮の長男 | |
家族 | 男 陞 明一七、三生、從四位 婦 治子 明二四、五生、長男陞妻、子爵水無瀨忠政妹 男 騤 明三九、九生 | |
記述部分(略伝) | 當家は左大臣源融八世の孫久の後なり久肥前國松浦郡宇野御厨檢校となりて西下し松浦黨の祖となる十四世答蒙古の襲來に防戰して功あり其子定勅を奉じて北條英時を討ち又足利尊氏と戰ひ勇武を以て鎭西鬼八郞の稱あり二十五世隆信葡西兩國の商船を平戸に引き海外貿易を創始し其子鎭信征韓の役に先鋒となりて殊功を樹て又蘭英貿易を開始す爾來世々肥前平戸及壹岐國を領し隔代に肥前守壹岐守と稱し平戸城に居り六萬一千七百石を食み三十七世先代詮に至る詮夙に勤王の志を抱き戊辰の役各所に轉戰して功あり明治十七年伯爵を授けられ麝香間祗候常宮御養育掛御歌所參候貴族院議員等に歷任し茶道に精通せり 君は其長男にして子爵稻葉正弘子爵稻葉正凱の叔父男爵佐竹義利の伯父なり元治元年六月を以て生れ明治四十一年襲爵仰付らる先之同十七年英國劍橋大學に留學し國際公法を修め獨佛伊等の諸國を歷遊して同二十六年歸朝す襲爵以來貴族院議員に選ばれ現に其職に在り又夙に舊藩内の殖産事業に盡力し功績尠からず鸞洲と號し漢詩を能くし文武兩道故實の頽廢を歎じ現に素行會々長弓馬會々長華族乘馬會幹事となり又學習院評議會々員の職を帶ぶ 家族は尚孫素(明四五、一生、長男陞長男)同規(大二、三生、同二男)同郁子(同四、一生、同長女)同舒子(同一〇、一二生、同二女)同擇(同一三、三生、同三男)同敏(同一五、四生、同四男)あり 長女晃子(同二八、一〇生)は子爵大久保忠春に三女和子(同三四、三生)は子爵戸澤正己叔父理學士當壽に四女克子(同三六、八生)は子爵大久保教尚弟教惠に妹逸子(慶應元、五生)は伯爵松平賴壽叔父亡賴溫に同都子(明二、二生)は伯爵伊達興宗先々代宗基に同正子(同九、六生)は子爵松井康昭先代康義に同冏子(同一三、三生)は侯爵伊達宗彰叔父武四郞に同益子(安政三、四生)は伯爵園基久先代基資に嫁し弟靖(慶應二、三生)は分家松浦子爵家を相續し同信常(同四、八生)は侯爵大隈家に同正復(同六、一二生)は子爵本多家に同勝純(同一七、七生)は子爵井上家に各養子となり當主たり | |
住所・電話番号 | 東京市外巢鴨町平松一五三五 電大塚四五五 | |
参照人物(親類) | 侯爵大隈信常、侯爵伊達宗彰、伯爵園基久、伯爵伊達興宗、伯爵松平賴壽、子爵井上勝純、子爵稻葉正弘、子爵稻葉正凱、子爵大久保忠春、子爵大久保教尚、子爵戸澤正己、子爵本多正復、子爵松井康昭、子爵松浦靖、子爵水無瀨忠政、男爵佐竹義利、※伯爵冷泉爲系、※山本太郞、※出淵中次 | |
参照次数 | 19 (※なし16) | |
読み | まつうら あつし | |
別名 |