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松山棟庵 (第4版 [大正4(1915)年1月] の情報)

位階・勲等・功級
爵位・身分・家柄東京府平民
職業松山病院醫師
性別男性
生年月日天保十年九月十七日 (1839)
親名・続柄 松山庄太郞の四男
家族妻 乃婦 嘉永三、五生、和歌山、士、内田宗藏二女
男 陽太郞 明六、四生
男 七五郞 明一五、一二生、醫學得業士
婦 靜子 明二四、一生、五男七五郞妻、東京、士、長谷川保定妹、御茶水高等女學校出身
男 陸郞 明一七、一二生、醫學士
婦 ユキ 明二四、八生、六男陸郞妻、東京、平、服部金太郞四女
男 庄七郞 明二四、五生
女 とみ 明二六、一生、東京女學館出身
記述部分(略伝)君は和歌山縣平民松山庄太郞の四男にして天保十年九月十七日を以て生る世々醫を業とす君年甫めて十六歳にして蘭學を學ひ後福澤諭吉に就き英學を修む當時藩の少參事濱口儀に謀り共立學舍を創立し明治四年大學東校に出仕す同八年初めて三田に診察所を設け濟生に從事す同十二年石黑三宅長谷川緖方諸大醫と謀り東京醫學會社を創設し同十四年高木兼寬と共に成醫會を興せり又東京共立病院の創設に與りて力あり今の慈惠醫院即之なり又東京醫會及芝私立衞生會の設立に功あり
家族は前記の外孫榮子(明四四、一〇生、五男七五郞長女)あり
四男得四郞(同一四、二生)は和歌山縣平民佐藤長右衞門の養子となり長女ぎん(同三、一〇生)は男爵本野一郞弟英吉郞に二女小ゑい(同八、一一生)は東京府平民坂本育太郞に三女くみ(同一九、八生)は東京府士族久保田勘次郞養子勝美に四女とし(同二〇、一二生)は男爵岩崎久彌弟康彌に五女ミネ(同二二、三生)は京都府平民田中源太郞二男二郞に嫁し二男信二郞(同一〇、九生)は分家せり
住所・電話番号東京、芝、三田三ノ一〇 電話芝九三一
参照人物(親類)男爵岩崎久彌本野英吉郞久保田勝美松山陽太郞佐藤得四郞長谷川保定服部金太郞田中源太郞、※牛塚虎太郞、※龍居賴三、※松田道一
参照次数11 (※なし8)
読みまつやま とうあん
別名
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