中御門經隆 (第4版 [大正4(1915)年1月] の情報)
位階・勲等・功級 | 從三位、勳四等 | |
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爵位・身分・家柄 | 男爵、侯爵家分家 | |
職業 | 退役海軍大尉 | |
性別 | 男性 | |
生年月日 | 嘉永五年二月二十九日 (1852) | |
親名・続柄 | 中御門經之の三男 | |
家族 | 妻 恭子 慶應元、五生、公爵岩倉具張叔母 男 經民 明二六、五生、從五位 女 佐保子 明二四、一生 | |
記述部分(略伝) | 當家は内大臣藤原鎌足の裔藤原資經の二男中御門經房の後にして侯爵中御門家の分家なり 君は從一位勳一等中御門經之の三男にして嘉永五年二月二十九日を以て生れ幼名を寬麿と稱す明治十三年分家して華族に列し男爵を授けられ名を經隆と改む君明治の初年英國に留學を命せられ同國「イーストマンス」海軍學校に入り業卒へて同九年歸朝同十年海軍中尉に任せられ海軍兵學校に勤務し同十四年海軍大尉に陞り後退役仰付らる日清戰役に召集せられ呉鎭守府海兵團分隊長水路嚮導官軍法會議判士に歷補し功に依り勳五等に叙し瑞寳章を授けられ同二十九年商船學校助教に任じ同分校長を兼ね尋て同教授に進み同三十二年官を辭し貴族院議員に擧けらる又三十七年日露戰役に際し陸軍省雇を命せられ俘虜監督の事に從ふ 二男經恭(明二一、一〇生)は中御門萬千子隱居跡を相續し長女瓏子(同一五、三生)は伯爵大谷光瑩弟勝信に二女澄子(同一六、一一生)は子爵内田正明先代正吉に三女敬子(同一八、七生)は東京府平民矢部長禎長男吉禎に嫁せり | |
住所・電話番号 | 東京、豐多摩、千駄ケ谷町原宿一七〇 | |
参照人物(親類) | 公爵岩倉具張、侯爵中御門經恭、伯爵大谷光瑩、子爵内田正明、※子爵森清、※男爵岩倉具德、※男爵南岩倉具威、※岩倉具綱 | |
参照次数 | 8 (※なし6) | |
読み | なかみかど つねたか | |
別名 | 寬麿 |