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澁澤榮一 (第4版 [大正4(1915)年1月] の情報)

位階・勲等・功級從三位、勳一等
爵位・身分・家柄男爵、東京府華族
職業株式會社第一銀行頭取、株式會社東京貯蓄銀行、帝國劇場株式會社各取締役會長、東京市養育院長、教育調査會會員、東京銀行集會所會長、東京興信所評議員
性別男性
生年月日天保十一年二月十四日 (1840)
親名・続柄 澁澤市郞右衛門の長男
家族妻 かね 安政二、正生、東京、平、伊藤八兵衛長女
男 篤二 明五、一〇生
婦 敦子 明一三、五生、長男篤二妻、伯爵橋本實頴妹
男 武之助 明一九、一二生
婦 美枝 明二七、九生、次男武之助妻、東京、平、福原有信四女
男 正雄 明二一、一一生
男 秀雄 明二五、一〇生
記述部分(略伝)君は埼玉縣平民亡澁澤市郞右衛門の長男にして天保十一年二月十四日を以て生る幼名を榮次郞と稱し後榮一と改め青淵と號す家代々農を業とす君少時父祖の業を佐け閑を以て書を學ひ劔を習へり時恰も幕政解弛し尊攘の議海内に鼎沸するや時勢に感する所あり耒耜を抛て江戸に出て交を天下の志士に訂し國事に奔走せり後一橋公の重臣某の隷僕に扮し幕吏の迫窮を避け窃に京師に至り一橋公に謁して時事を痛論し公の知遇を得任用せられて同家に仕へ其財務を整理し税法を改め農兵を編制する等功績連りに擧り寵遇益々厚し慶應三年一橋公幕府の統を嗣き將軍となるや清水民部大輔を海外に差遣し其の文物制度を視察せしむ君隨伴して佛國に赴き彼地の實況を目擊し豁然として悟る所あり明治元年民部大輔に從て歸朝し同二年徵されて大藏省に出仕し租税正より累進して大丞に陞り後三等出仕となれり君大藏權大丞の任に在りて通商司を兼ぬるや東京大阪の商業家を勸誘して爲替會社廻漕會社等を創立せしめ之か整理監督の任に當れり是本邦合本會社の嚆矢なりといふ同六年各省定額論に就きて議臺閣と合はす決然挂冠して野に下り第一國立銀行に入りて其總督役に推され尋て頭取となり拮据經營業務の擴張に努め社運隆々以て今日を致せり其他君か直接に管理し間接に賛成せし商工會社は實に枚擧に遑あらす又夙に商業教育に留意し始て商法講習所を設立し後之を府立商業學校に移し其評議員となりて同校の發展に努めり是れ實に現高等商業學校の濫觴なり又商法會議所を創設し銀行集會所を發起し以て商工業者の地位を高め其信用を發達伸暢するに勉めり挂冠後は身を商工業の振興に委ね貴族院議員に勅選せられたるも幾くもなく之を辭任し敢て政治に干與するを欲せす專ら實業に盡瘁す實に我實業界の泰斗といふ可し其功勞に依り往年華族に列し男爵を授けらる君の偉業は啻に實業界のみに止まらす公共慈善の事一として君の盡瘁を仰かさるなく其投資に待たさるなし曩に君養育院を開始したるに後東京府會の廢止せんとするや奔走盡力し之を有志團體に移し其維持に努む後再ひ東京市立に復し推されて其院長となり現時に及へり又去四十二年中には渡米實業團の團長として半歳の間老軀を國民的交綏に盡したるのみならす國家經濟的發展の基礎を作りたるは普く世人の知る所にして又其勞を多とする處なり傳へ聞く先考資性剛毅にして果斷君其資を享け事に當りて百折屈せす日夜精勵す先妣又人となり溫良にして慈愛君其薰陶を受け人に接するや懇切敢て親疎を以て輕重せす常に公共の事に盡瘁す位階從三位に陞り勳一等に叙せらる現時纔に第一銀行外一二の任を帶ふるのみ
家族は前記の外孫敬三(明二九、八生、長男篤二長男)同信雄(同三一、六生、同二男)同智雄(同三四、三生、同三男)あり
女宇多(文久三、八生)は法學博士穗積陳重に同こと(明三、二生)は法學博士男爵阪谷芳郞に三女ふみ(同四、六生)は埼玉縣平民尾高次郞に四女てる(同八、六生)は同縣平民大川平三郞に女愛(同二三、七生、御茶ノ水高等女學校出身)は岡山縣人法學士明石照男に嫁し男辰雄(同二五、四生)女津留(同三〇、一二生)同まつ(同三三、七生)は共に東京府士族星野錫の養子となれり
住所・電話番号東京、北豐島、瀧ノ川町西ケ原 電話下谷一六四九・二九四一
参照人物(親類)伯爵橋本實頴、男爵阪谷芳郞穗積陳重明石照男星野錫尾高次郞大川平三郞福原有信、※伯爵清水谷實英、※天野七三郞、※野依範治
参照次数12 (※なし9)
読みしぶさわ えいいち
別名榮次郞
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