澁澤榮一 (第8版 [昭和3(1928)年7月] の情報)
位階・勲等・功級 | 正三位、勳一等 | |
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爵位・身分・家柄 | 子爵、東京府華族 | |
職業 | 東京市參與、東京市養育院長、文政審議會委員、第一銀行(株)相談役 | |
性別 | 男性 | |
生年月日 | 天保十一年二月 (1840) | |
親名・続柄 | 澁澤市郞右衞門の長男 | |
家族 | 妻 かね 安政二、一生、東京、伊藤八兵衞長女 男 篤二 明五、一〇生 孫 敬三 明二九、八生、長男篤二長男、正五位 | |
記述部分(略伝) | 君は埼玉縣人澁澤市郞右衞門の長男工學博士澁澤元治同治太郞の伯父にして實業家大川平三郞は其の甥に當る天保十一年二月を以て生れ幼名を榮治郞と稱し後榮一と改め青淵と號す家代々農を業とす君少時父祖の業を佐け閑を以て書を學び劍を習ふ時恰も幕政弛廢し尊攘の議海内に鼎沸するや時勢に感ずる所あり暴擧を策したれども事を擧ぐるに至らずして中止し京都に上り一橋慶喜卿の重臣平岡圓四郞の推擧によりて一橋家に仕へ其財政を整理し税法を改め農兵を編制する等功績連に擧り寵遇益厚し慶應三年一橋卿幕府の統を嗣ぎ將軍となるに及び巴里大博覽會を機とし清水民部大輔を海外に差遣し其文物制度を視察せしむるに方り君隨伴して佛國に赴き彼の地の實況を目擊し豁然として悟る所あり明治元年民部大輔に從て歸朝し同二年徵されて大藏省に出仕し租税正より累進して大丞に陞り後三等出仕となる君大藏權大丞の任に在りて通商司を兼ぬるや東京大阪の紳商を勸誘して爲替會社廻漕會社等を創設せしめ之が整理監督の任に當れり是本邦商事會社の嚆矢なり同六年各省定額論に就きて議臺閣と合はず決然挂冠して野に下り第一國立銀行を創立して其總監役に推され尋で頭取となり拮据經營業務の擴張に努め社運隆々以て今日の盛を致せり其他君が直接間接に管理賛助せし商工會社は實に枚擧に遑あらず又夙に商業教育に留意し始て商法講習所を設立し後之を府立商業學校に移し其評議員となりて同校の發展に努む是れ現東京商科大學の濫觴なり又商法會議所を創設し銀行集會所を發起し商工業者の地位を高め其信用を伸暢するに力めたり先是第一期の貴族院議員に勅選せられたるも幾くもなく之を辭し敢て政治に于與せず只管實業の振興に盡瘁す我實業界の權威として明治三十三年勳功に依り華族に列し男爵を授けらる社會事業に對する努力も亦偉なるものあり東京市養育院は其創設以來院長として熱心經營今日に至り尚中央社會事業協會協調會報効會國際聯盟協會日印協會日華實業協會理化學硏究所等を主宰し其關係せる公共團體八十餘に及ぶ曩に同四十二年渡米實業團の團長として半歳の間老軀を國民的交歡に盡したるのみならず國家經濟的發展の基礎を作りたるは普く世人の知る所なり大正五年喜壽に達せるを機とし第一銀行頭取其他實業界に於ける一切の地位を引退し專ら力を慈善公共教育の事に盡し又日支日米等の親交に努め民間代表の外交家たるの觀あり同九年多年國家に盡したる勳勞に依り子爵に陞さる今や齡米壽を過ぐること一歳強健壯者を凌ぐものあり經濟と德道の一致資本と勞働の協調及慈善救濟に力を注ぎ日夕奔走盡瘁しつゝあり 二男武之助(明一九、一二生)三男正雄(同二一、一一生)四男秀雄(同二五、一〇生)は各分家し長女宇多(文久三、八生)は男爵穗積重遠先代陳重に二女琴(明三、二生)は男爵阪谷芳郞に三女フミ(同四、六生)は埼玉縣人尾高豐作先代次郞に五女愛(同二三、七生)は岡山縣人明石照男に嫁せり | |
住所・電話番号 | 『住所』東京、麴町、永樂町二ノ一 電丸ノ内一二九一―三 『居所』東京市外瀧野川町西ケ原一〇三六 電小石川四六〇―一 | |
参照人物(親類) | 男爵阪谷芳郞、男爵穗積重遠、明石照男、尾高豐作、大川平三郞、澁澤篤二、澁澤敬三、澁澤武之助、澁澤正雄、澁澤秀雄、澁澤元治、澁澤治太郞、※竹田政智 | |
参照次数 | 13 (※なし12) | |
読み | しぶさわ えいいち | |
別名 | 榮治郞 |