English

大隈重信 (第4版 [大正4(1915)年1月] の情報)

位階・勲等・功級正二位、勳一等
爵位・身分・家柄伯爵、舊佐賀藩士
職業内閣總理大臣兼内務大臣、早稻田大學總長
性別男性
生年月日天保九年二月十六日 (1838)
親名・続柄 大隈信保の長男
家族妻 綾子 嘉永三、一〇生、東京、士、三枝守冨妹
女 熊子 文久三、一二生
養孫 信常 明四、八生、養孫光子天、伯爵松浦厚弟、正五位、内閣總理大臣祕書官兼内務大臣祕書官
養孫 光子 明一七、一生、養孫信常妻、東京、士、三枝守富三女
記述部分(略伝)君は舊佐賀藩士大隈信保の長男にして天保九年二月十六日を以て生る弱冠にして藩黌弘道館に經書を學ひ後蘭學を修む長崎に出て英人に就き英學及算學を研修す當時尊攘の論囂々を極む副島二良等の志士と大に王事に盡す所あり後藩吏に捕はれて謹愼を命せらる明治初年選拔せられて九州鎭撫總督參謀となり爾後仕官して參與外國官副知事會計官御用掛會計官副知事神祗事務局御用掛參謀大藏大輔大藏省事務總裁大藏卿等に歷任し同十三年參議に任せられ會計及外務の兩科を兼掌せり後議閣僚と合はす官を辭して野に下り改進黨を組織して其總理となれり同二十年特旨を以て華族に列し伯爵を授けらる同二十一年外務大臣に任せられ條約改正の事に鞅掌し事成らんとするに當り物議を紛起し遂に之を中止す福岡縣人來島恒喜君を途に要擊して之を傷く後骸骨を乞ふて野に下り政黨の事に努力せり同三十年憲政黨内閣を組織し君其總理大臣として農商務大臣を兼攝す尋て兼任外務大臣たり幾くもなく其職を辭す大正三年再ひ勅命を奉して内閣を組織し内閣總理大臣兼内務大臣たり又夙に育英に留意し早稻田に專門學校を設立し後其組織を大學に改め其總長たり
家族は前記の外曾孫豐子(明三七、一二生、養孫信常長女)同信幸(同四三、五生、同長男)あり
養子知惠(同一五、八生、東京、士、三枝守富二女)は男爵眞木長義長男平一郞に嫁せり
住所・電話番号東京、豐多摩、戸塚町字下戸塚七〇 電話番町一七七、二七四
参照人物(親類)伯爵松浦厚、男爵眞木長義三枝守富、※侯爵伊達宗陳、※伯爵松平賴壽、※伯爵伊達宗基、※子爵田尻稻次郞、※子爵稻葉正繩、※子爵本多正憲、※男爵佐竹義準
参照次数12 (※なし4)
読みおおくま しげのぶ
別名
画像を表示