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大隈重信 (初版 [明治36(1903)年4月] の情報)

位階・勲等・功級正二位、勳一等
爵位・身分・家柄伯爵
職業憲政本黨總理
性別男性
生年月日天保九年二月十六日 (1838)
親名・続柄 大隈信保の長男
家族妻 綾子 嘉永三年十月生東京府士族三枝守富妹
女 熊子 文久三年十二月生
養孫 信常 明治四年八月生伯爵松浦詮五男光子夫
養孫 光子 明治十七年一月生東京府士族三枝守富三女信常妻
記述部分(略伝)君は舊佐賀藩士大隈信保の長男にして天保九年二月十六日を以て生る維新の際廣く天下の志士と交り勤王の大義を唱道して復古の偉業を奏す爾來朝に仕へて徵士參與職外國事務局判事橫濱裁判所在勤を命ぜられ後明治元年五月長崎判事兼外國官判事に轉じ同年十二月外國官副知事を同二年正月參與職同年八月大藏大輔に任じ同月民部大輔に同年十一月大藏大輔を兼任す同三年七月專任大藏大輔となり同年九月參議に任じ同四年三月各國條約改正御用掛同年六月大藏大輔同年七月更に參議に任じ同十一月造幣寮創設に與かる同六月大藏省事務總裁兼任同年十月大藏卿に同七年四月臺灣蕃地事務長官同八年四月地租改正局御用掛同九年五月奧羽御巡幸供奉仰付られ同年十二月征討費事務長官同十一年地租改正總裁に同十二年三月條約改正御用掛に歷任し後廟堂諸公と議協はず冠を掛けて民間に下り改進黨を組織して自由民權を唱道し又傍ら早稻田專門學校を起して子弟薰陶に力を盡す明治二十年五月を以て華族に列し勳功により伯爵を授けらる同二十一年外務大臣に任ぜらる時恰も條約改正問題に就き民間の論議囂々たるの際君も亦此問題に對し民間政治家の反對を受け遂に兇漢の狙擊に遇ひ片脚を失ふ翌年十二月樞密院に入り在職一年にして野に下り松方内閣の組織せらるゝや入て外務大臣となり三十一年内閣總理大臣として憲政黨内閣を組織し十一月民間に下りて目下憲政本黨の總理たり
養女ちゑ(明治十五年八月生)は男爵眞木長義男平一郞妻に嫁せり
住所・電話番号東京府豐多摩郡戸塚村大字下戸塚七〇 電話番町一七七
参照人物(親類)伯爵松浦詮、男爵眞木長義
参照次数2
読みおおくま しげのぶ
別名