德川圀順 (第4版 [大正4(1915)年1月] の情報)
位階・勲等・功級 | 正五位 | |
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爵位・身分・家柄 | 侯爵、舊水戸藩 | |
職業 | 陸軍步兵少尉、貴族院議員 | |
性別 | 男性 | |
生年月日 | 明治十九年十二月十三日 (1886) | |
親名・続柄 | 德川篤敬の長男 | |
家族 | 母 總子 明二、一二生、伯爵松平賴壽姉 妻 英子 明二〇、三生、公爵德川慶久妹 男 圀齋 明四五、三生 叔母 直子 明三三、五生、學習院女學部在學 | |
記述部分(略伝) | 當家は贈太政大臣家康の十一子權中納言賴房の後なり賴房幼名を鶴松麿といふ慶長十一年常州下妻十萬石に封せられ同十四年十二月封を水戸に移し二十五萬石を領す寬文元年七月薨し其子光圀家を繼く黃門と稱す朝廷を尊崇し幕府を補佐し文武の教育を盛んにす其一代の事業に至ては古代の勤王家を愛慕し名儒を聘して大日本史を祖述し湊川に碑を立て〻楠家の忠節を表旌せる等功業偉勳擧て數ふ可からす晩年西山に隱退し風月を弄して餘生を送る後義公と謚すこれより綱條完堯治保治紀齊修を經て權中納言齊昭に至る齊昭天朝を尊ひ幕府を敬し山陵を修し謚法を復し弘道館を起して文武の道を奬勵す實に水戸中興の主なり謚して烈公と云ふ其子慶篤を經て昭武に至る昭武は齊昭の十八男なり先代慶篤の子篤敬を養ふて嗣となす篤敬夙に海外に航し歸朝後家督を相續し明治十七年七月侯爵を授けらる後特命全權公使となり貴族院議員に列す 君は其長男にして明治十九年十二月十三日を以て生れ同三十一年家督を繼き襲爵仰付らる 家族は前揭の外弟敬信(明三〇、五生)叔母溫子(同三四、九生)あり 同政子(同一八、八生)は子爵毛利元雄に同昭子(同一六、一生)は伯爵松平賴壽に妹敬子(同二二、五生)は伯爵松浦厚長男陞に嫁し養弟武定は分家して子爵を授けらる養伯父忠和(嘉永四、二生)は子爵松平家を相續せり | |
住所・電話番号 | 東京、本所、新小梅町一 電話本所三 | |
参照人物(親類) | 公爵德川慶久、伯爵松浦厚、伯爵松平賴壽、子爵毛利元雄、子爵德川武定、子爵松平忠和、※侯爵四條隆愛、※伯爵勝精、※子爵松平親信、※男爵德川誠 | |
参照次数 | 12 (※なし7) | |
読み | とくがわ くにゆき | |
別名 |