島津忠濟 (第4版 [大正4(1915)年1月] の情報)
位階・勲等・功級 | 正二位、勳四等 | |
---|---|---|
爵位・身分・家柄 | 公爵、麝香間祗候、公爵島津家分家 | |
職業 | 宗秩寮審議官、貴族院議員 | |
性別 | 男性 | |
生年月日 | 安政二年三月九日 (1855) | |
親名・続柄 | 島津久光の六男 | |
家族 | 妻 田鶴子 明三、一一生、子爵竹内惟治伯母 男 忠承 明三六、五生 | |
記述部分(略伝) | 當家は民部大輔惟豐宗廣言の子島津豐後守忠久の裔にして代々薩摩大隅日向三州の守護となり鹿兒島に居城を築き其國を領す後義久の時秀吉に日向を削られ薩隅二國の大守となり後十二代を經て齊彬に至る齋彬頗る賢明にして夙に尊王の大義を唱へしか夭死し其弟久光の子忠義之を承け久光又其後を襲く久光亦賢明の名あり維新の前後身を挺して國事に奔走し偉勳赫々たり明治二年參議兼左近衛中將に任せられ大納言内閣顧間に歷任し正二位勳一等に叙せられ同十七年七月公爵を授けらる同二十年九月病に罹り特に從一位に叙し大勳位菊花大綬章を賜はる 君に其六男にして安政二年三月九日を以て生る幼名久濟後ち今の名に改む明治二十一年一月家督を相續し同二十三年十月貴族院議員に列し麝香間祇候仰付らる公爵島津忠重男爵島津長丸男爵島津壯之助は君の甥なり 家族は前記の外三女肅子(明三四、三生)三男久大(同三九、五生)四女量子(同四一、一生)あり 二女薰子(同二九、一生)は侯爵小松輝久に姉光子(弘化二、五生)は公爵近衛文麿祖父忠房に養妹輯子(元治元、四生)は伯爵眞田幸正先代幸民に嫁し兄忠欽(弘化二、一一生)は某妻子と共に分家し男爵を授けらる | |
住所・電話番号 | 東京、麴町、三年町四 電話新橋三五六 | |
参照人物(親類) | 公爵近衛文麿、公爵島津忠重、侯爵小松輝久、伯爵眞田幸正、子爵竹内惟治、男爵島津忠欽、男爵島津長丸、男爵島津壯之助、※男爵本堂親雄 | |
参照次数 | 9 (※なし8) | |
読み | しまづ ただなり | |
別名 |