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溝口直正 (第4版 [大正4(1915)年1月] の情報)

位階・勲等・功級從二位
爵位・身分・家柄伯爵、舊越後新發田藩主
職業
性別男性
生年月日安政二年二月二十五日 (1855)
親名・続柄 溝口直溥の四男
家族妻 久爾子 安政五、一二生、子爵分部光謙姉
男 直亮 明一一、四生、正五位勳五等功五級陸軍步兵少佐、陸軍省軍務局課員
婦 須美子 明二一、七生、長男直亮妻、伯爵德川達孝長女
記述部分(略伝)當家は清和天皇の皇孫鎭守府將軍源經基五世の裔新羅三郞義光より出て五世を經て逸見義重に至る義重承久の亂に軍功あり美濃大桑鄕を賜はり後尾州溝口の鄕に移る因りて溝口を以て姓とす其後數世を經て秀勝に至る秀勝織田信長の將丹羽長秀に從ひ若狹高濱城を治す天正十一年豊臣秀吉の越前征伐に屬し軍功あり信長即ち加賀大聖寺城主とし祿四萬四千石を賜ふ後豊臣秀吉薨ずるや德川家康に屬し勳功あり慶長三年越後新發田六萬石に封せられ大阪冬夏陣に又軍功あり祿四萬石を加賜せられ其子伯耆守宜勝より代々新發田藩主たり夫より十世直諒を經て從四位直溥に至る
君は其四男にして安政二年二月二十五日を以て生る幼名を誠之進と云ふ慶應三年八月新發田十萬石の封を襲ぐ戊辰の役官軍に屬し關東軍の先鋒となり尋て會津征討の際居城新發田を以て總督宮の本營と定められ命を蒙りて各所に勇戰し軍功を樹つ明治元年十二月伯耆守に任し翌二年六月藩籍を奉還し新發田藩知事に任し同十二年十月宮中祗候を同十六年十二月式部寮御用掛を同十九年二月式部職仰付けられ同六月之れを辭す同十七年七月伯爵を授けらる
家族は前記の外男三郞(明二九、八生、高千穗中學在學)女末子(同四一、二生)男正夫(同四五、六生)孫歌子(同四〇、一二生、長男直亮長女)同豊子(同四二、一一生、同二女)あり
妹董子(安政二、五生)は故有栖川宮熾仁親王殿下の妃とならせられ弟武五郞(同元、一生)は其妻都子(同九、一生、子爵土屋正直姉)と共に分家し三男直介(同一七、九生、工學士陸軍技師)も亦分家し弟正治(文久元、一〇生)は故子爵增山正同に同忠元(明三、七生)は故子爵諏訪忠誠に五男正男(同一九、一一生)は伯爵前田利同に各養子となり弟盛光(同六、七生)は子爵五島家を襲き姉鋹子(天保一二、五生)は子爵大河内正敏の養祖母にして二女久美子(明二二、六生)は東京府平民大倉喜八郞長男喜七郞に嫁し男正利(同二六、四生)は弟子爵增山正治に同六郞(同四三、七生)は分家弟溝口武五郞に各養子となれり
住所・電話番号東京、北豊島、巢鴨町巢鴨一ノ一七 電話番町一三八四
参照人物(親類)有栖川宮家、伯爵德川達孝、伯爵前田利同、子爵土屋正直、子爵增山正治、子爵諏訪忠元、子爵五島盛光、子爵大河内正敏大倉喜八郞大倉喜七郞、※伯爵立花寬治、※子爵德川武定、※子爵松平忠和
参照次数13 (※なし10)
読みみぞぐち なおまさ
別名誠之進
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