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黑田長成 (初版 [明治36(1903)年4月] の情報)

位階・勲等・功級正四位、勳四等
爵位・身分・家柄侯爵、舊福岡藩主
職業貴族院副議長
性別男性
生年月日慶應三年五月五日 (1867)
親名・続柄 黑田長知の長男
家族妻 喜代 明治四年三月生公爵島津忠義長女
母 登代 天保九年五月生子爵松平定教伯母
記述部分(略伝)當家は宇多天皇の皇孫左大臣源雅信の後裔佐々木秀義の曾孫京極近江守氏信の男佐渡守滿信の二男左衞門宗清の後なり宗清江州黑田の邑に住せしを以て黑田を以て姓となす宗清より高滿宗信高教高信を經て數代中絶し左近大夫高政に至り備前の福岡に移る其子重隆再び播州姫路に移り赤松氏に屬す子職隆播州御箸城主小政職に仕へ大に軍功あり天文十四年姫路の城主となる天正五年木下秀吉西下するや子孝高之を居城に迎へ深く結托する所あり後九州を平定するに及び豊前六郡を賜はる其子長政亦勇名あり文祿元年征韓の擧あるや行長清正と共に驍名を競ふ秀吉亡び關ケ原の役家康に屬し拔群の功を以て福岡の城主となり五十二萬石を領す其子忠之耶蘇の叛徒を島原に討し長崎守護を命ぜらる忠之より十代を經て齋博に至り藤堂和泉守高猷の次男を養ふて嗣となす先代長知是なり元治慶應の際五卿西走す長知之を擁護して幕府に抗し維新の鴻業に與りしこと多し朝廷賞典祿を賜ひ其功を賞す
君は其長子にして慶應三年五月五日を以て生る幼名を桃次郞といひ又幸千代と稱す明治十一年十二月二十八日家督相續十七年七月侯爵を授けらる九月英國に航し「ケンブリツチ」大學に學び二十一年十一月業を卒へて歸朝し二十二年六月式部官に任じ帝室制度取調掛を仰付けらる二十五年貴族院議員となり翌年八月臨時製鐵事業調査委員仰付られ二十七年十月貴族院副議長に選ばる又二十七八年戰役の際軍用金を献納し從軍者家族を扶助し傷病兵を救恤し朝廷其功を嘉し二十九年三月勳四等に叙し旭日小綬章を授けられ翌三十年四月議員選擧調査會副會長仰付けられ六月銀盃の恩賜あり
家族は前記の外長男長禮(明治二十二年十一月生)あり
弟峯太郞(同十四年一月生)は同二十九年分家長和と改名同靜男(同十八年七月生)は同二十五年華族黑田長德の養嗣子となり長敬と改名妹禎子(同十五年十一月生)は侯爵鍋島直大長男直映に嫁せり
住所・電話番号東京市赤坂區福吉町一 電話新橋一二九番、一三一九番
参照人物(親類)公爵島津忠重、侯爵鍋島直大、子爵松平和雄、子爵黑田長敬、伯爵藤堂高紹、男爵黑田長和
参照次数6
読みくろだ ながしげ
別名桃次郞