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曾我祐準 (初版 [明治36(1903)年4月] の情報)

位階・勲等・功級正三位、勳一等
爵位・身分・家柄子爵、舊筑後國柳河藩士
職業後備陸軍中將、貴族院議員、日本鐵道株式會社長
性別男性
生年月日天保十四年十二月廿五日 (1844)
親名・続柄 曾我祐興の二男 **
家族妻 晟子 嘉永三年十一月生男爵華園澤稱姉
男 祐邦 明治三年七月生
同 祐光 明治十三年九月生
婦 晃子 明治九年十二月生公爵鷹司熈通養女祐邦妻
記述部分(略伝)當家は從五位曾我祐信の後なり祐信相模國曾我莊を領し氏となす尚十數世を經て直時に至り立花宗茂に仕へて戰功あり以來柳河藩士として祐隆に至る其子祐正家を嗣ぎ
君は弟にして別家す天保十四年十二月廿五日柳河に生る幼名を準造といふ明治元年海軍御用掛となり函館五稜廓の變あるや海軍參謀として出張し甚だ功あり同二年十月從六位となる同三年兵部權大丞に任ぜられ同六年二月陸軍少將に進み教導團長となり翌七年十月士官學校長に任ぜられ同十年西南の役あり同年四月君博多に着し參謀部を設立し同月征討第四旅團長官となりて海路鹿兒島に向ひ同年六月重富に進軍しそれより各地に轉戰し同九月遂に陷る同年十一月陸軍將校以下勳功調査委員となり同月勳二等旭日重光章を賜ふ同年十二月熊本鎭臺司令長官を同十四年二月中部監軍部長心得を同十五年二月參謀本部次長を兼任し同十六年二月陸軍中將に任じ參謀本部次長に補し同四月從四位に進み同十八年五月仙臺鎭臺司令長官に補し同十九年三月兼參謀部長に任じ同年七月陸軍士官學校長に同廿一年四月明宮御教養主任を仰付られ同二十二年十一月東宮大夫に任じ勳一等瑞寶章を賜ふ同二十四年六月宮中顧問官に任じ同二十四年十二月貴族院議員に當選し同三十年七月再選され同三十二年四月華族令第十八條に依り第一號第二號事件評議員仰付らる
女滿子(明治七年九月生)は福岡縣士族立花銑三郞に同遼子(明治九年二月生)は同縣士族立花銑太郞に嫁し
孫祐文(明治卅二年十月生)同清子(明治三十四年二月生)は家にあり
住所・電話番号東京市駿河臺鈴木町一四 電話本局七三五
参照人物(親類)男爵華園澤稱、公爵鷹司熈通
参照次数2
読みそが すけのり
別名準造