西鄕吉之助 (第8版 [昭和3(1928)年7月] の情報)
位階・勲等・功級 | 從五位 | |
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爵位・身分・家柄 | 侯爵、鹿兒島縣華族 | |
職業 | ||
性別 | 男性 | |
生年月日 | 明治三十九年七月 (1906) | |
親名・続柄 | 西鄕寅太郞の三男 | |
家族 | ||
記述部分(略伝) | 當家は故南洲西鄕隆盛の後なり隆盛は舊鹿兒島藩士にして夙に尊王の大義を唱へ身を挺して國論の喚起に努め戊辰の役大總督府參謀として談笑の間に江戸城を收む爾來參議陸軍大將近衞都督となり維新の元勳邦家の柱石として朝野の重望を負へしも征韓の議合はず遂に城山の露と消ゆ先々代寅太郞は其長男にして夙に獨逸に留學して普國陸軍士官學校を卒業し歸朝後陸軍戸山學校を出で明治二十五年陸軍步兵少尉に任じ大佐に累進す其間步兵第五十五聯隊大隊長習志野俘虜收容所長等に歷補し同三十五年亡父隆盛の偉勳に依り特旨を以て華族に列し侯爵を授けらる 君は寅太郞の三男にして侯爵西鄕從德の再從弟に方り明治三十九年七月を以て生れ大正十年先代兄隆輝の後を繼ぎ襲爵仰付けらる 家族は尚弟隆永(明四一、八生)同隆國(同四三、五生)同隆明(同四四、一一生)同隆正(大二、二生)妹光子(同三、一一生)弟隆德(同五、八生)亡大叔父小兵衞妻マス(安政四、四生、鹿兒島、士、有馬糺右衞門長女)あり 姉愛子(明三三、九生)は大分縣人吉田道夫の養子となり同敦子(同三六、八生)は靜岡縣人緖明圭造二男太郞に嫁し叔父午次郞(同四、三生)は同妻ヒテ(同一九、六生、島根、堀藤十郞姉)及其子女を伴ひ分家せり | |
住所・電話番号 | 鹿兒島市武町一七九二 | |
参照人物(親類) | 侯爵西鄕從德、緖明圭造、堀藤十郞、※阿部市郞兵衞、※齋藤浩介、※澤原俊雄、※道源權治、※濱口儀兵衞 | |
参照次数 | 8 (※なし3) | |
読み | さいごう きちのすけ | |
別名 |