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後藤新平 (第8版 [昭和3(1928)年7月] の情報)

位階・勲等・功級從二位、勳一等
爵位・身分・家柄子爵、岩手縣華族
職業前官禮遇、貴族院議員
性別男性
生年月日安政四年六月 (1857)
親名・続柄 後藤十右衞門の長男
家族男 一藏 明二六、九生
記述部分(略伝)君は岩手縣水澤の邑主伊達家の醫臣後藤十右衞門の長男にして幕末の蘭學者高野長英は其大伯父なり安政四年六月を以て生る水澤縣の一給仕より身を起し夙に福島縣須賀川病院附屬醫學校に學び愛知縣立病院醫學校當直醫兼教諭に任ぜられ西南の役起るや大阪陸軍臨時病院傭醫となり尋で名古屋鎭臺病院に入り再び愛知縣立病院醫學校の聘に應じ同病院長兼醫學校長に進む同十六年内務省衞生局御用掛となり尋で技師に轉じ同二十三年救貧醫事社會衞生制度專攻の爲め獨逸に留學を命ぜられ居る事三年ミユンヘン大學よりドクトル・メヂチーネの學位を受けて歸朝し衞生局長に任ぜらる翌年相馬事件に坐して休職となりしも幾何もなく寃罪雪がれて中央衞生委員となり日清戰役に際し臨時陸軍檢疫部事務官長を命ぜられ再び衞生局長に轉任す同三十一年故兒玉大將の知遇を得て臺灣總督府民政局長に拔擢せられ同三十六年貴族院議員に勅選せらる同三十九年臺灣統治の功に依り華族に列し男爵を授けらる同年南滿洲鐵道會社總裁となり關東都督府臺灣總督府各顧問を兼ぬ同四十一年桂第二次内閣の成立と共に遞信大臣に親任せられ鐵道院總裁拓殖局副總裁を兼任す大正元年再び遞信大臣兼鐵道院總裁となり同五年寺内内閣に列して内務大臣に親任せられ同七年外務大臣に轉じ外交調査委員會幹事長に推さる同九年東京市長に擧げられ同十一年外交調査會廢止に際し子爵に陞され日露國交囘復の交涉を斡旋す同十二年山本内閣に入りて再び内務大臣となりしも幾何なく之を辭し前官の禮遇を賜ふ後東京市政調査會を設立し或は政界の倫理化運動を起す等隱然政界の一勢力たり尚拓殖大學長東洋協會日露協會各會頭等に擧げられ社會事業に貢献するところ少からず
長女愛(明二八、七生)は東京府人鶴見祐輔に養子しづ(同一六、三生、愛知、有賀松太郞妹)は醫學博士佐野彪太に嫁し二男平八(大二、二生)は新潟縣士族藤澤喜士太の養子となり弟彦七(慶應元、四生)は分家せり
住所・電話番号東京、麻布、櫻田町五〇 電青山五一三二
参照人物(親類)後藤一藏佐野彪太鶴見祐輔
参照次数3 (※なし3)
読みごとう しんぺい
別名
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