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後藤新平 (第4版 [大正4(1915)年1月] の情報)

位階・勲等・功級正三位、勳一等
爵位・身分・家柄男爵、巖手縣華族
職業貴族院議員
性別男性
生年月日安政四年六月五日 (1857)
親名・続柄 後藤十右衞門の長男
家族母 リヱ 安政八、一一生、巖手、平、亡坂野長安長女
妻 カツ 慶應二、三生、男爵安場末喜妹
男 一藏 明二六、九生
記述部分(略伝)君は巖手縣平民後藤十右衞門の長男にして安政四年六月五日を以て生る夙に福島縣須賀川病院附屬醫學校に學び愛知縣立病院醫學校當直醫兼醫學校教諭等に任ぜらる西南の役起るや大阪陸軍臨時病院傭醫となり尋て名古屋鎭喜病院に入りしが再び愛知縣立病院醫學校の招聘に應じ同病院長兼醫學校長に進む同十六年内務省衞生局奏任御用掛となり尋て技師に任じ同廿三年救貧醫事社會衞生制度專攻の爲め獨逸に留學を命ぜられ居る事三年ミユンヘン大學よりドクトル、メヂチーネの學位を受けて歸朝し衞生局長に任ぜらる翌年相馬事件に座して休職となりしも幾くもなく寃罪雪がれて中央衞生會委員に擧げらる日清戰役の際には臨時陸軍檢疫部事務官長を命ぜられ再内務省衞生局長に轉任す同卅一年故兒玉大將の知遇を得て臺灣總督府民政局長の重任に就き同卅九年臺灣統治の勳功を以て華族に列し男爵を授けらる同年南滿洲鐵道株式會社總裁に擧げられ關東都督府臺灣總督府各顧問を兼ぬ後第二次桂内閣の成立と共に遞信大臣鐵道院總裁拓殖局副總裁に兼任せられ大正元年十二月再び桂内閣に列して遞信大臣に親任せられ鐵道院總裁を兼ね翌年二月官を辭し特に大臣の禮遇を賜はる曩に貴族院議員に勅選せられ現に其任に在り
家族は前記の外二男平八(大二、二生)あり
長女慶(明二八、七生)は東京府人鶴見祐輔に養子しづ(同一六、三生、愛知縣人有賀松太郞妹)は沖繩縣人佐野彪太に嫁し弟彦七(慶應元、四生)は分家せり
住所・電話番号東京、麻布、宮村町七一 電話長芝一二三
参照人物(親類)男爵安場末喜
参照次数1 (※なし1)
読みごとう しんぺい
別名
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