山本權兵衞 (第4版 [大正4(1915)年1月] の情報)
位階・勲等・功級 | 正二位、勳一等、功一級 | |
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爵位・身分・家柄 | 伯爵、舊鹿兒島藩士 | |
職業 | 豫備海軍大將 | |
性別 | 男性 | |
生年月日 | 嘉永五年十月十五日 (1852) | |
親名・続柄 | 山本五百助の三男 | |
家族 | 妻 登喜 萬延元、四生、新潟、平、津澤鹿助三女 男 清 明一六、一二生、正五位海軍中尉 婦 マサ 明二七、一生、長男清妻、豫備海軍主計大監平井七三郞長女 | |
記述部分(略伝) | 君は鹿兒島縣士族山本五百助の三男にして海軍少將大田盛實は其弟なり嘉永五年十月十五日を以て生る明治三年海軍兵學寮に入り同七年征臺の役に從ひ海軍少尉補と爲る後歐米諸國へ航し同十年海軍少尉に任せらる同十八年浪速回航員として英國に差遣仰付けられ少佐に進み同二十年海軍傳令使となり樺山海軍次臣に從ひ歐米に差遣尋て大佐に進み同二十七八年戰役に大本營附海軍大臣副官を仰付られ帷幕に參劃し功を以て海軍少將に進み同三十一年海軍中將に昇進し海軍大臣に親任せらる同三十七年海軍大將に進む此間高雄艦掌砲長水雷長高千穗艦長海軍大臣官房主事海軍省軍務局長等の榮職に歷任し日露の戰役には海軍大臣として功あり功一級金鵄勳章旭日大綬章を賜はる後本官を辭し軍事參議官たり同四十年九月伯爵を授けらる多年本邦海軍々政の樞機を把握し軍務局長時代既に事實の海軍大臣を以て稱せられ伊藤内閣の組織せらる〻や無名の大臣は一躍有名の海軍大臣に拔擢せらる海軍兵學寮出身にして海軍大臣に進みしもの君を以て嚆矢とす而して多年蓄積したる潜勢力は海軍部内に瀰漫し挂冠閑地に就くも鬱然として負嵎の猛虎の如く政界の動搖する每に其出盧を傳へられ幾回か内閣の首班を以て擬せられしも自重して出てす大正二年二月桂内閣瓦解するに方り政友會と連衡して斡旋する所あり終に大命を蒙りて内閣を組織し國政調理の大任を帶ひしか時偶シーメンス事件の勃發するに遇ひ輿論の反抗を招き終に責を引いて挂冠するに至れり 家族は前記の外孫滿喜子(大元、一一生、長男清長女)あり 長女いね(明一二、一〇生)は海軍中將財部彪に二女すゑ(同一四、三生)は愛媛縣人山路一遊弟一善(海軍大佐)に三女みね(同一八、一一生)は鹿兒島縣士族山本盛正に四女なみ(同二〇、四生)は男爵上村彦之丞養子從義に五女登美(同二一、五生)は侯爵松方正義七男乙彦に嫁せり | |
住所・電話番号 | 東京、芝、高輪臺町三二 電話芝八三 | |
参照人物(親類) | 男爵上村彦之丞、財部彪、山本盛正、松方乙彦、大田盛實 | |
参照次数 | 5 (※なし5) | |
読み | やまもと ごんのひょうえ | |
別名 |