柳澤光邦 (第4版 [大正4(1915)年1月] の情報)
位階・勲等・功級 | 正三位 | |
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爵位・身分・家柄 | 子爵、舊越後黑川藩主 | |
職業 | ||
性別 | 男性 | |
生年月日 | 安政元年三月十三日 (1854) | |
親名・続柄 | 武田信之の六男 | |
家族 | 妻 ひさ 文久三、一〇生、東京、士、那須資毅姉 男 光治 明二四、六生 | |
記述部分(略伝) | 當家は源經基五代義光の末葉柳澤吉保の男經隆の後なり經隆父吉保より別れて一家を爲し甲斐國に住し後越後黑川に移封せらる五世を經て光昭に至り君其後を嗣く 實は從五位武田信之の六男なり安政元年三月十三日を以て生れ文久二年先代光昭の養子となる明治元年五月刑部大輔に任し爾來黑川藩知事大藏省御用掛等に歷任し同十七年七月男爵を授けらる曾て貴族院議員たり 長女斐(明九、一生)は子爵津輕益男先代類橘に三女鉚(同一六、七生)は子爵京極高義に四女宣子(同二〇、一二生)は神奈川縣平民若尾文太郞長男龍太郞に嫁し弟光敏(同三、一二生)は故伯爵柳澤保申の養嗣子となり名を保惠と改め伯爵家を襲き同恭雄(同一三、四生)は東京の人京極禮子の入夫となれり | |
住所・電話番号 | 東京、芝、田町八ノ一 | |
参照人物(親類) | 伯爵柳澤保惠、子爵津輕益男、子爵京極高義、若尾文太郞 | |
参照次数 | 4 (※なし4) | |
読み | やなぎさわ みつくに | |
別名 |