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板垣退助 (第4版 [大正4(1915)年1月] の情報)

位階・勲等・功級正二位、勳一等
爵位・身分・家柄伯爵、舊高知藩士
職業大臣待遇
性別男性
生年月日天保八年四月十六日 (1837)
親名・続柄 板垣榮六の子
家族妻 絹子 安政六、五生、子爵福岡孝弟養女
男 鉾太郞 明元、五生、從四位
婦 せつ 明一四、二生、長男鉾太郞妻、靜岡、平、松本君平妹
男 正實 明二二、四生
女 千代子 明二六、四生、學習院女學部卒業
女 良子 明二八、一生、學習院女學部卒業
記述部分(略伝)君は舊高知藩士板垣榮六の男にして天保八年四月十六日を以て生る幕末天下の志士と交を結び勤王の大義を唱ふ明治の初年東山道總督府參謀として出軍し甲州勝沼に近藤勇の兵を破り進んて野州に戰ひ白河を陷れ會津を降し米澤を歸順せしめ事平定するに及ひ參與に任ぜらる翌年參議となり賞典祿千石を賜はる同六年西鄕隆盛等と征韓論を主張し議竟に容れられずして野に下り翌年一月副島種臣後藤象次郞等と民選議院の設立を建白し亦容れられず歸縣して立志社を創立し大に民權自由の説を唱ふ同十三年國會開設請願有志大會を大阪に開き其議を决し愛國公黨組織を宣言す後更に自由黨を組織し各地遊説の途中偶々岐阜に於て相原某の爲に刺されんとして免る同十五年後藤象次郞等と歐洲に航し政况を視察し歸朝の後專ら力を政黨政社に盡す同二十年五月特旨を以て華族に列し伯爵を授けらる同二十三年立憲自由黨を組織し其總理に推さる後伊藤内閣に入りて内務大臣と爲り同三十一年六月憲政黨内閣成るに當り再び入りて内務大臣と成る此年十月内閣倒る〻や辭職を上奏し野に退く爾來政界に意を絶ち專ら社會教育に意を注ぎ傍ら武士道を激勵しつ〻あり
家族は前記の外孫守正(明三三、三生、長男鉾太郞二男)同正貫(同三六、二生、同三男)あり
三女婉(同五、五生)は東京府士族小川一眞に嫁し三男六一(同三〇、一一生)は別家せり
住所・電話番号東京、芝、芝公園第七號八番 電話芝七六〇番
参照人物(親類)子爵福岡孝弟小川一眞
参照次数2 (※なし2)
読みいたがき たいすけ
別名
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