甘露寺義長 (第4版 [大正4(1915)年1月] の情報)
位階・勲等・功級 | 從二位 | |
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爵位・身分・家柄 | 伯爵、舊公卿 | |
職業 | ||
性別 | 男性 | |
生年月日 | 嘉永五年八月二十八日 (1852) | |
親名・続柄 | 甘露寺勝長の長男 | |
家族 | 妻 立子 安政三、一〇生、子爵勘解由小路資承伯母 男 受長 明一三、一〇生、正五位、法學士、東宮侍從 婦 滿子女王 明一八、一〇生、長男受長妻、北白川宮故能久親王長女 | |
記述部分(略伝) | 當家は内大臣藤原鎌足七世良門の子勸修寺高藤の曾孫爲輔の二男宣孝の後なり夫れより二十六世を經て勝長に至る 君は其長男にして嘉永五年八月二十八日を以て生る明治二年三月侍從に任し同八年三月淡山神社宮司に同十月貴船神社宮司に同十八年三月寒川神社宮司に同二十五年七月青山御所祇候に任せられ同三十年六月正三位に叙せられ後從二位に陞叙せらる 家族は前記の外三男方房(明三三、二生)孫績子(同三九、二生、長男受長長女、同壽子(同四〇、一〇生、同二女)同忠長(同四二、四生、同長男)同高子(同四三、一一生、同三女)同親房(同四五、二生、同二男)あり 長女義子(同二二、五生)は伯爵奥保鞏三男保夫に嫁し妹篤子(文久元、二生)は分家し弟興長(嘉永六、一〇生)は男爵中川家を再興せり | |
住所・電話番号 | 東京、豊多摩、千駄ケ谷町千駄ケ谷九七 電話番町五三八〇 | |
参照人物(親類) | 北白川宮家、伯爵奥保鞏、子爵勘解由小路資承、男爵中川興長、※伯爵烏丸光大、※子爵武者小路公共、※男爵川口武定 | |
参照次数 | 7 (※なし4) | |
読み | かんろじ よしなが | |
別名 |