加納久宜 (第4版 [大正4(1915)年1月] の情報)
位階・勲等・功級 | 從二位、勳三等 | |
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爵位・身分・家柄 | 子爵、舊一ノ宮藩主 | |
職業 | 貴族院議員、日本赤十字社監事、株式會社十五銀行、株式會社丁酉銀行、帝國倉庫運輸株式會社各取締役、帝國農會長、一宮町長 | |
性別 | 男性 | |
生年月日 | 嘉永元年三月十九日 (1848) | |
親名・続柄 | 立花種道の二男 | |
家族 | 妻 鎰子 萬延元、九生、千葉、士、原三䕃次女 男 久朗 明一九、八生、從五位、法學士、株式會社橫濱正金銀行員 婦 多津 明二五、一生、二男久朗妻、東京、士伊藤祐敬五女 男 久憲 明二二、一生、東京帝國大學農科大學在學 | |
記述部分(略伝) | 當家は藤原鎌足の苗裔從五位下遠江守加納久通の後なり久通德川氏に仕へて功あり一萬石を食む其孫遠江守久周に至り一萬三千石に加增せられ代々上總國一ノ宮に居城し從五位下大和守久恒に至り君其後を受く 君實は立花式部種道の次男にして嘉永元年三月十九日を以て生れ慶應三年先代久恒の養子となり其封を襲く明治二年藩籍を奉還し同年一ノ宮藩知事となる同六年文部省八等出仕に補せられ後督學局八等出仕となり同九年中視學に任し同十年盛岡師範學校長兼學區總監を命せられ後新潟學校長に轉す同十四年判事に任し更に檢事に轉し同二十三年貴族院議員となり同年東京控訴院檢事に補せらる同二十七年鹿兒島縣知事に任し同三十三年休職となり再ひ上院議員に選はる君退官後專ら力を公私國體の爲に盡瘁し現時前記各銀行會社の重役として知らる 家族は前記の外孫久道(明四四、二生、二男久朗長男)同久次(同四五、五生、同二男)同多惠子(大二、八生、同長女)あり 三女冲子(明一七、一生)は長野縣平民陸軍少將武田三郞に五女國子(同二三、三生)は子爵河野季忠に六女八重(同二四、八生)は農商務技師理學士和歌山縣平民野田勢次郞に七女治(同二五、八生)は内務書記官法學士大分縣士族後藤文夫に八女夏(同二六、九生)は鑛業家福岡縣平民麻生太吉三男太郞に養女理子(同一三、七生、伯爵立花寬治二女)は子爵立花種忠に嫁せり | |
住所・電話番号 | 千葉、長生、一宮町 | |
参照人物(親類) | 伯爵立花寬治、子爵河野季忠、子爵立花種忠、伊藤祐敬、麻生太吉、後藤文夫、武田三郞 | |
参照次数 | 8 (※なし7) | |
読み | かのう ひさよし | |
別名 |