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東鄕平八郞 (第4版 [大正4(1915)年1月] の情報)

位階・勲等・功級從二位、大勳位、功一級
爵位・身分・家柄伯爵、舊鹿兒島藩士
職業元帥海軍大將、東宮職御學問所總裁
性別男性
生年月日弘化四年二月二十二日 (1847)
親名・続柄 東鄕吉左衞門の三男
家族妻 テツ 文久元、九生、子爵海江田幸吉姉
男 彪 明一八、二生、從五位
男 實 明二三、九生
記述部分(略伝)君は鹿兒島縣士族東鄕吉左衞門の三男にして弘化四年二月二十二日を以て生れ慶應三年六月分家して一家を創立す少時藩の選を以て航海操艦の術を學ひ戊辰の際北越奥羽に轉戰して功あり明治四年英國に留學して專ら海事を研修す歸朝後中尉に任せられ爾後累進して同十八年海軍大佐となり主船局に出仕し次て橫須賀鎭守府兵器部長となり日清の役大佐を以て浪速艦長に補せられ第一遊擊艦隊の先鋒として豐島に黃海に或は旅順威海衞の攻擊に絶へず勳功を奏し威名頓に擧かる戰役中海軍少將に進み平和克復の後功を以て功四級に叙し金鵄勳章勳四等旭日小綬章を賜はる幾もなく海軍中將に昇り常備艦隊司令長官となり後舞鶴鎭守府司令長官に轉し日露開戰當時選拔せられて聯合艦隊司令長官となり旅順港外に露國東洋艦隊司令長官「スタルク」中將を破り又「マカロフ」中將を斃し遂に露の第一東洋艦隊を全滅せしめ再び露國第二第三派遣艦隊を對島水道に迎へ激戰數時全艦隊を擊滅し司令長官以下を虜にし偉大なる勳功を奏し赫々たる功名は歐洲列強國をして東洋のネルソンを以て賞揚するに至らしめ敵國をして呆然其措置に窮せしむ東洋の制海權を握り平和克復の基を開き戰役中海軍大將に昇任せらる後偉勳を以て大勳位功一級に叙し一躍伯爵を授けられ尋て元帥府に列せらる曩に海軍々令部長軍事參議官たりしか今次東宮御學間所の設置さる〻や總裁の大任に就きたり
二女八千代(明二四、一〇生)は男爵園田安賢二男實に嫁せり
住所・電話番号東京、麴町、上六番町三七 電話長番町一五四五
参照人物(親類)子爵海江田幸吉、男爵園田安賢、※東鄕吉太郞
参照次数3 (※なし2)
読みとうごう へいはちろう
別名
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