岩倉具定 (初版 [明治36(1903)年4月] の情報)
位階・勲等・功級 | 正二位、勳一等 | |
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爵位・身分・家柄 | 公爵、舊公卿 | |
職業 | 々位局長兼侍從職幹事、貴族院議員、樞密顧問官 | |
性別 | 男性 | |
生年月日 | 嘉永四年十二月二十七日 (1852) | |
親名・続柄 | 岩倉具視の嫡子 | |
家族 | 祖母 槇子 文政十年六月生滋賀縣士族故野口爲五郞二女 父 具綱 天保十二年四月生 母 增子 嘉永二年三月生子爵富小路隆直三代前政直四女 妻 久子 文久二年十月生伯爵澤宣量叔母 男 具張 明治十一年七月生 男 具行 明治十二年八月生 女 米子 明治十年十一月生 婦 櫻子 明治十九年一月生故侯爵西鄕從道長女 | |
記述部分(略伝) | 當家は具平親王の第一子右大臣源師房より出づ師房廿世の孫具堯從五位木工頭たり後姓を岩倉と改むそれより十三代具視に至る具視は實に維新の元勳なり其子具綱嗣ぎ後隱居す 君は實に其嫡子なり嘉永四年十二月二十七日を以て生る幼名を周丸といひ文久二年六月今の名に改めたり明治元年一月東山道鎭撫使となり又東山道先鋒總督を兼ね同五月從四位下に叙せられ奧羽征討白川口總督となり同三年正月米國に留學し同五年五月歸朝同七年八月從四位上に叙し同十五年三月勳四等旭日小綬章を賜ふ同十六年十二月正四位に進み同十七年四月制度取調局御用掛兼勤を命ぜられ同年七月家を續ぎ贈太政大臣具視の功に依り公爵を授けらる同二十一年十月帝國制度取調委員仰付られ主獵官を兼任し同年七月爵位局長に任じ同年十一月從三位に同二十三年十月貴族院議員に列し同二十五年三月學習院長を兼任し同年七月正三位に同二十六年六月勳二等瑞寶章を賜ふ同二十九年六月從二位に同三十年六月勳一等瑞寶章を賜ふ同三十一年三月帝室禮式取調委員を同年五月皇族取調委員を命ぜられ同卅三年一月載仁親王殿下歐洲御差遣の隨行仰付られ同年九月歸朝す同年六月正二位に敘せらる 家には猶ほ男具美(明治十七年八月生)同具高(明治二十三年六月生)同具綱(明治二十七年九月生)同具顯(明治二十七年九月生)從妹とき子(明治二十五年十月生)女季子(明治三十年十月生)あり 叔父道俱(明治十四年五月生)は別家し從妹成子(明治十六年十二月生)同信子(明治十九年六月生)同三代(明治二十二年十一月生)は分家し叔母寬子(元治元年三月生)は故森有禮に同靜子(文久二年五月生)は子爵故吉田兼治に妹極(安政四年十一月生)は伯爵戸田氏共に同妹子(慶應元年五月生)は男爵中御門經隆に同昭子(慶應三年十一月生)は侯爵廣幡忠朝に同亥尾子(明治六年八月生)は男爵南岩倉具威に女周子(明治九年八月生)は小松依仁親王殿下に同豐子(明治十七年八月生)は故侯爵西鄕從道二男從德に嫁せり | |
住所・電話番号 | 東京市麴町區霞ケ關三 電話新橋八一五 | |
参照人物(親類) | 小松宮家、伯爵澤宣量、侯爵西鄕從德、伯爵戸田氏共、男爵南岩倉具威、男爵岩倉道俱、子爵岩倉具明、子爵吉田良正、男爵中御門經隆、子爵森清、侯爵廣幡忠朝 | |
参照次数 | 12 | |
読み | いわくら ともさだ | |
別名 | 周丸 |