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京極高德 (第8版 [昭和3(1928)年7月] の情報)

位階・勲等・功級從二位、勳三等
爵位・身分・家柄子爵、舊讃岐丸龜藩
職業貴族院議員
性別男性
生年月日安政五年十一月 (1858)
親名・続柄 京極高岑の長男
家族妻 熊子 萬延元、九生、高知、士、山内豐樹三女
男 高修 明二四、四生、正五位、陸軍步兵少尉、法學士
婦 溫子 明三四、九生、五男高修妻、侯爵德川圀順叔母、學習院女學部出身
女 久子 明一一、七生
庶子 政子 明二五、三生、生母、東京、中村よし、上野高等女學校出身
記述部分(略伝)當家は源雅信の後胤佐々木秀義の曾孫近江守氏信の後なり氏信洛陽京極の館に住し京極氏と稱すそれより十三世を經て侍從兼若狹守高次に至り豐臣秀吉に愛せられ近江國大津六萬石を領し關ケ原の役德川氏に屬し若州九萬二千石に封ぜらる其嫡男右少將忠高將軍秀忠の女を娶るの故を以て雲隱二州二十四萬石の大封を受く忠高嗣なく家名斷絶せしも同姓主馬高政の男刑部尚輔高和之を再興し五世を經て世々讃州丸龜五萬五千石の城主として先代朗徹に至る君其後を享く
君實は同族京極高岑の長男にして安政五年十一月を以て生れ明治四年叔父朗徹の養子となり同六年家督を相續し同十七年子爵を授けらる青山御所勤務明宮祗候同勤務仰付けられ初期以來貴族院議員に當選すること六囘現に其任に在り日獨事件の功に依り勳三等に敍せらる圍碁謠曲を好み又角通を以て稱せらる
家族は尚孫秀子(大一一、二生、五男高修長女)同高晴(同一二、九生、同長男)同壽美子(同一五、九生、同二女)あり
六男文彦(明二五、一一生)は子爵京極高備の養子となり高文と改名し八男敦(同三二、八生)は香川縣人三崎龜之助に庶子讓(同三二、一〇生、生母、東京、佐藤ヨシ)は東京府人松平親子母敏子に各養子となり四女春子(同二二、一生)は新潟縣人稻田英昌に六女富子(同二七、八生)は京都府人中江龍二に八女豐子(同三五、一一生)は子爵入江爲守長男爲常に庶子八重子(同一六、一一生、生母、東京、中村よし)は子爵池田政時に同多幾子(同二二、七生、生母同上)は子爵本多忠鋒に同茂子(同二四、二生、生母同上)は神奈川縣士族川口義久に養妹藤子(同四、一〇生)は子爵有馬聰賴先代賴之に嫁し庶子俊次郞(同一八、七生、生母、東京、中村よし)は分家し七男定(同二九、八生)は東京府人篠田美喜代の入夫となれり
住所・電話番号東京、麻布、東鳥居坂町二 電青山六五八〇
参照人物(親類)侯爵德川圀順、子爵有馬聰賴、子爵池田政時、子爵入江爲守、子爵京極高備、子爵本多忠鋒川口義久中江龍二、※伯爵德川達道、※伯爵松平賴壽、※子爵毛利元雄、※男爵松平齊光
参照次数12 (※なし8)
読みきょうごく たかのり
別名
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