京極高德 (第4版 [大正4(1915)年1月] の情報)
位階・勲等・功級 | 正三位、勳四等 | |
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爵位・身分・家柄 | 子爵、舊讃州丸龜藩主 | |
職業 | 貴族院議員 | |
性別 | 男性 | |
生年月日 | 安政五年十一月五日 (1858) | |
親名・続柄 | 京極高岑の長男 | |
家族 | 妻 熊子 萬延元、九生、高知、士、内山豊樹三女 嗣子 高修 明二四、四生、從五位學習院在學 男 俊次郞 明一八、七生、京都帝國大學法科大學生 男 文彦 明二五、一一生、東京高等師範學校附屬中學校在學 女 久子 明一一、七生 女 春子 明二二、一生 女 茂子 明二四、二生、私立上野高等女學校出身 女 政子 明二五、三生、私立上野高等女學校出身 女 包子 明三一、四生、學習院女學部在學 | |
記述部分(略伝) | 當家は宇多天皇の皇子敦實親王の後裔左大臣雅信より出つ後佐々木廣綱に至り勅命を奉し光季の洛陽高辻京極の邸を攻め其賞として京極の舊邸を賜ふ氏信に至り京極の館に住し是より姓を京極と稱す數十代を經て從三位高次に至り江州大津の城主として六萬石を領す後ち德川氏に仕へ若狹一圓を領す嗣子なく家名絶へんとせしも高次の忠功に依り高和播州龍野に於て六萬石を食む萬治元年移封して丸龜城主となり七世を經て當主高德に至る 君實は香川縣士族京極高岑の長男にして安政五年十一月五日を以て生る明治四年當家の養子となり同十七年七月子爵を授けらる同十九年以降青山御所勤務明宮祇候同勤務を仰付られ初期以來貴族院議員に當選すること四回今尚其任に在り曩に日露事件の功に依り勳四等に叙し旭小綬章を賜ふ 家族は前記の外七男定(明二九、八生)男讓(同三二、一〇生)八女豊子(同三五、一一生)あり 女八重子(同一六、一一生)は子爵池田政時に二女たき子(同二二、七生)は子爵本多忠鋒に養妹藤子(同四、一〇生)は子爵有馬賴之に五女富子(同二七、八生)は京都府士族中江種一弟龍二に嫁し八男敦(同三二、八生)は香川縣平民三崎龜之助の養子となれり | |
住所・電話番号 | 東京、下谷、入谷町一四二 電話下谷一一〇 | |
参照人物(親類) | 子爵池田政時、子爵本多忠鋒、子爵有馬賴之、中江種一 | |
参照次数 | 4 (※なし4) | |
読み | きょうごく たかのり | |
別名 |