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北里柴三郞 (第8版 [昭和3(1928)年7月] の情報)

位階・勲等・功級正三位、勳二等
爵位・身分・家柄男爵、東京府華族
職業醫學博士、貴族院議員、帝國學士院會員、慶應義塾大學醫學部長兼病院長、北里硏究所長、日本醫師會長、濟生會醫務主幹、日本醫師共濟生命保險(互)相談役
性別男性
生年月日嘉永五年十二月 (1853)
親名・続柄 北里惟信の長男
家族男 善次郞 明三〇、一二生、理學士
婦 ミハ 明三八、八生、二男善次郞妻、山口、山根太郞妹
男 良四郞 明四〇、九生
男 俊太郞 明二八、一生、法學士
記述部分(略伝)君は熊本縣人北里惟信の長男にして嘉永五年十二月を以て生れ明治三十一年家督を相續す夙に熊本醫學校に學び明治十六年東京大學醫學部を卒業して内務省衞生局に出仕し同十八年獨逸國に留學を命ぜられコツホ博士に師事して血清療法竝びに細菌學を修め北里菌なる一種の黴菌を發見して斯界の賞讃を博せり同二十四年醫學博士の學位を授けられ同二十五年歸朝後内務省傳染病硏究所長兼種苗製造所技師として專ら細菌の硏究に從事しペスト病源硏究の爲香港に出張し黴菌學の世界的大家として獨逸よりも醫學博士の學位を贈らる大正五年同硏究所が東京帝國大學の移管となるや其職を辭し北里硏究所を起し之が所長となり同六年貴族院議員に勅選せられ同十三年勳功に依り華族に列し男爵を授けらる曩に慶應義塾大學の醫學部を創設するや擧げられて其部長兼病院長となり尚帝國學士院會員日本醫師會長に推されて濟生會醫務主幹日本醫師共濟生命保險會社相談役を兼ぬ
家族は尚庶子文太郞(大七、一二生、生母、東京、柴崎ナカ)同武次郞(同一一、三生、生母同上)同トミ(同四、三生、生母、埼玉、三村こを)同マサ(同七、二生、生母同上)同正十郞(同一〇、九生、生母同上)孫政子(同一二、六生、長男俊太郞長女)同陽子(同一四、一一生、二男善次郞長女)あり
長女ヤス(明二六、九生、學習院女學部出身)は法學博士渡邊銕藏に二女美代(同三五、八生、學習院女學部專攻科出身)は東京府人大使館三等書記官千葉蓁一に三女壽惠子(同三七、一生、山脇高等女學校出身)は福島縣人石田弼常從弟二郞に嫁せり
住所・電話番号東京、麻布、仲ノ町一九 電青山二七一〇
参照人物(親類)渡邊銕藏、※伯爵兒玉秀雄
参照次数2 (※なし1)
読みきたざと しばさぶろう
別名
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