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渡邊嘉一 (第8版 [昭和3(1928)年7月] の情報)

位階・勲等・功級勳五等
爵位・身分・家柄東京府士族
職業工學博士、伊那電氣鐵道、朝鮮鐵道、東洋電機製造、諏訪電氣鐵道、京阪土地、櫻セメント各(株)社長、京阪電氣鐵道、京王電氣軌道、奈良電氣鐵道、中央電化工業各(株)取締役、大同電力、臺灣電氣興業、鶴見臨海鐵道、國際汽船、大日本鹽業各(株)監査役、東京石川島造船所(株)相談役
性別男性
生年月日安政五年二月 (1858)
親名・続柄
家族妻 よし 慶應三、六生、養父忻三長女
男 哲二 明二九、七生、法學士、東京海上火災保險會社々員
婦 廣 明三七、五生、二男哲二妻、工學博士原田鎭治五女
男 茂藏 明三一、六生、米國ハーバート大學出身、米國スケネクタデー町ゼネラル・エレクトリツク會社勤務
婦 ノーラ・ガートルード 明二一、一一生、三男茂藏妻、加奈陀ヂヨージ・アレキサンダー・キトソン長女
記述部分(略伝)當家は代々德川家旗本能勢家に仕ふ先々代宗輔子なく因て忻三を養ふて嗣となす忻三は浦賀奉行の與力を勤めたる朝夷權十郞の三男なり維新の際榎本武揚等と五稜廓に據り歸順後政府に仕へ累進して海軍汽機總監橫須賀造船所長に陞り從四位勳三等に敍せらる
君は長野縣人宇治橋八十太郞の弟にして安政五年二月を以て生れ先代忻三の養子となり大正二年家督を相續す先是明治十六年舊工部大學校を卒業し工學士となり工部技師を拜命し鐵道局勤務を命ぜらる翌十七年職を辭して英國に航しグラスゴー大學に學びC.E.,&B.Sc.の學位を得て卒業後サア・ジヨン・フワウラー及びサア・ベンジヤミン・ベーカー工務所技術見習生となり尋で同所技師に進み世界第一の鐵橋たるフオース・ブリツヂの工事を監督せり又同國在留中閑を以て佛獨蘭白の工業狀況を視察す同二十一年歸朝日本土木會社の技術部長を囑せられ同二十五年參宮鐵道會社技師長となり尋で同會社々長兼技師長に擧げられ同三十年北越鐵道會社專務取締役兼技師長に推さる同三十二年工學博士の學位を受け後成田鐵道東京電氣鐵道京都電氣鐵道關西瓦斯福島木材各會社の取締役を兼任し又大正十四年帝國鐵道協會の名譽會員に推擧せらる現時前揭諸會社の重役として斯界に重きをなせり
家族は尚孫嘉男(大一二、四生、二男哲二長男)同榮男(同一三、一〇生、同二男)同光男(同一五、七生、同三男)あり
長女くに(明一七、二生)二女久江(同二二、二生)は各分家し三女晴江(同二六、七生)は理學博士本間賢介に四女幸江(同二八、四生)は法學士福井粲一に嫁し四男慶三(同三二、六生、慶應義塾大學經濟科出身、大同電力會社員)は姉くにに養弟五八(同二九、五生)は錦鷄間祗候古川阪次郞に各養子となれり
住所・電話番号東京、赤坂、表町三ノ一三 電青山三五〇〇・五七一〇
参照人物(親類)原田鎭治古川阪次郞、※岩崎重次郞、※平野平兵衞
参照次数4 (※なし2)
読みわたなべ かいち
別名
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