渡邊嘉一 (第4版 [大正4(1915)年1月] の情報)
位階・勲等・功級 | 勳五等 | |
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爵位・身分・家柄 | 東京府士族 | |
職業 | 工學博士、京阪電氣鐵道株式會社常務取締役、京都電氣鐵道株式會社、株式會社東京石川島造船所、四國瓦斯株式會社、關西瓦斯株式會社、株式會社石川島造船所、櫻セメント株式會社、伊那電車軌道株式會社各取締役▲大日本鹽業株式會社監査役 | |
性別 | 男性 | |
生年月日 | 安政五年二月八日 (1858) | |
親名・続柄 | ||
家族 | 妻 よし 應應三、六生、養父忻三長女 男 哲二 明二九、七生 女 くに 明一七、二生 女 久江 明二二、二生 | |
記述部分(略伝) | 君は長野縣平民宇治橋八十太郞の弟にして安政五年二月八日を以て生れ明治十六年六月故海軍機關少將渡邊忻三の養子となり大正二年十二月家督を相續す先是明治十六年工部大學を卒業して工學士の稱號を得工部技師を拜命同十七年職を辭して英國に航しグラスゴー大學に學ひ卒業後「サア、ジヨンフワウラー」及「サア、ベンジヤミン、ベーカー」工務所技術見習生となり尋て同所技師となり世界第一の鐵橋たる「フオースブリツヂ」の工事を督せり又同國在留中閑を以て佛獨蘭白等の工業狀况を視察し同二十一年歸朝して直ちに日本土木株式會社の技術部長を囑せられ同二十五年參宮鐵道株式會社に轉し其技師長となり後同會社長兼技師長に同三十年北越鐵道株式會社の專務取締役兼技師長に擧けられ同年帝國鐵道協會評議員に推薦せらる同三十二年工學博士の學位を受け後成田鐵道東京電氣鐵道京阪電氣鐵道各株式會社の取締役となり次て前記諸會社の重役に擧けられ現に其任に在り 家族は前記の外三男茂藏(明三一、六生)四男慶三(同三二、六生)あり 三女晴江(同二六、七生)は新潟縣人本間賢介に四女幸江(同二八、四生)は法學士福井粲一に養妹きみ(同二四、七生)は東京府人朝夷糺に嫁し弟治三(同二六、九生)妹壽衞(同二七、一二生)同やす(同三一、三生)同正(同三三一生)は共に分家し養弟五八(同二九、五生)は鐵道院副總裁古川阪次郞の養子となれり | |
住所・電話番号 | 東京、赤坂、表町三ノ一三 電話長新橋五二 | |
参照人物(親類) | 古川阪次郞 | |
参照次数 | 1 (※なし1) | |
読み | わたなべ かいち | |
別名 |