English

山名義路 (第4版 [大正4(1915)年1月] の情報)

位階・勲等・功級從三位、勳五等
爵位・身分・家柄男爵、舊但州村岡藩主
職業陸軍輜重兵少佐、貴族院議員
性別男性
生年月日萬延元年十一月四日 (1860)
親名・続柄 山名義濟の長男
家族妻 トヨ 明二、四生、德島、士、佐藤信有長女
男 義鶴 明二四、九生
女 操子 明二七、五生
記述部分(略伝)當家は清和天皇の皇孫鎭守府將軍源經基七代大炊助新田義重の男山名冠者義範の後なり義範上州山名の庄を領し因つて地名を氏となすそれより十數世を經て右衞門督持豐に至る持豐後剃髮して宗全と稱し但因伯播石備後を領し且つ備前美作諸國を攝管し威甚た振ふ後細川勝元と相惡み黨を結ひ兵を衆め西京に兩立すること數年文明五年病んて陣中に卒す後數世豐國に至り德川家康に從ひ諸所の戰爭に功あり但州竹田城を賜はる夫れより數世を經但州村岡の藩主として從五位義濟に至る
君は其長男にして萬延元年十一月四日を以て生る幼名を加鶴又金剛丸と云ふ明治四年三月家督を相續し同年六月村岡藩知事に任し同十三年陸軍士官學校に入り同二十年陸軍步兵少尉に任し同十七年七月特に華族に列し男爵を授けらる同二十五年十一月陸軍輜重兵中尉に任し爾來累進して同三十九年四月輜重兵少佐に昇任す日清役に從軍して功あり勳六等に叙し日露の役又從軍して勳功を樹て勳五等双光旭日章を賜はる同四十一年四月京都眞言宗聯合大中學體操科教授の囑托を受く曩に貴族院議員に互選せられ現に其任に在り
家族は前記の外二女緣(明三七、六生)あり
二男義龜(同三一、一生)は兵庫縣士族垣屋きん死亡跡を相續し伯母萬壽(安政二、七生)は法學博士井上密の母堂たり
住所・電話番号京都、葛野、華園村
参照人物(親類)井上密
参照次数1 (※なし1)
読みやまな よしみち
別名加鶴、金剛丸
画像を表示