English

中野武營 (第4版 [大正4(1915)年1月] の情報)

位階・勲等・功級正七位、勳四等
爵位・身分・家柄香川縣士族
職業東京商業會議所會頭、日清生命保險株式會社社長、石狩石炭株式會社、凾館水電株式會社、株式會社博進社各取締役、株式會社日本晝夜貯蓄銀行監査役、日本陶料株式會社相談役、教育調査會々員
性別男性
生年月日嘉永元年一月三日 (1848)
親名・続柄 中野可一の長男
家族妻 セム 安政六、一生、香川、士、下津永行妹
男 岩太 明四、一生、法學士
婦 トキ 明一七、一一生、長男岩太妻、香川、士、牛窪求馬長女
男 武二 明一七、一一生、東京帝國大學法科大學獨法科在學
婦 ケイ 明二二、八生、二男武二妻、東京、平、名倉謙藏長女
男 營三 明一九、三生、東京美術學校西洋畫科卒業
女 芳 明二六、一〇生、東京女子高等師範學校附屬高等女學校卒業
記述部分(略伝)君は香川縣士族中野可一の長男にして嘉永元年一月三日を以て生れ明治四年四月家督を相續す維新後香川縣史生より出てゝ權少屬と爲り地租改正事務局員として縣外各地に出張し改租の功をなす西南戰爭當時職を熊本縣に奉し公事に鞅掌す後山口縣吏となり尋て農商務省權少書記官に擢んてられ幾くもなく河野敏謙と袂を連ねて辭職し大隈重信を推して立憲改進黨を組織し二十一年鄕里より推されて愛媛縣會議員となり尋て議長に推さる此間香川縣再設のことにつきて功あり河野氏の東京株式取引所頭取に推さるゝや君亦入りて肝煎と爲り副頭取に進む後關西鐵道會社社長に擧けられ二十三年帝國議會開設に際し衆議院議員に當選し爾來其選に當ること八回に及ふ現今前記諸會社の重役にして東京商業會議所會頭たり又大正二年六月教育調査會の設置せらるゝや其會員を命せらる三十九年日露事件の功に依り勳五等に叙し尚實業界に盡したる功勞を以て勳四等に陸叙せらる
家族は前記の外孫作▲(明三三、一〇生、長男岩太郞長男)同次郞(同三九、四生、同二男)同俊三郞(同四〇、九生、同三男)同貞四郞(同四二、一一生、同四男)あり
住所・電話番号東京、本鄕、元町一ノ五 電話下谷一五二五
参照人物(親類)牛窪求馬名倉謙藏、※細溪宗次郞
参照次数3 (※なし2)
読みなかの ぶえい
別名
画像を表示