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高木兼寬 (第4版 [大正4(1915)年1月] の情報)

位階・勲等・功級正三位、勳二等
爵位・身分・家柄男爵、舊鹿兒島藩士
職業醫學博士、退役海軍々醫總監、貴族院議員、東京慈惠會理事、同醫院長、同醫學專門學校長、帝國生命保險株式會社顧問兼審査醫長
性別男性
生年月日嘉永二年九月十五日 (1849)
親名・続柄 高木兼次の長男
家族妻 富子 安政元、七生、千葉、士、瀨脇壽人長女
男 喜寬 明七、一一生、從五位
男 兼二 明一四、九生、醫學博士
男 舜三 明一六、一生、東京高等商業學校及米國ペンセル〓ニヤ商科大學卒業三井物産會社員
婦 多都雄 明一九、一二生、三男舜三妻、京都、平、三井三郞助二女
記述部分(略伝)君は關白藤原道隆の裔高木實遠の孫舊鹿兒島藩士高木兼次の長男にして嘉永二年九月十五日を以て日向に生る夙に醫學を修め明治元年四月京都に赴き六月鹿兒島藩兵隊附醫師となり東北征討軍に從ふ同十一月歸藩開成學校に入り蘭學及英學を學ひ同五年十月海軍中軍醫に任せらる同八年六月海軍生徒と爲り英國に留學同十三年十一月歸朝爾後累進して海軍々醫總監に陞任す其間東京海軍病院長醫務局學舍長軍醫本部長衞生部長海軍中央衞生會議長等に歷補し同二十五年豫備同四十二年九月後備役仰付らる先是同二十一年五月醫學博士の學位を授けられ同二十五年貴族院議員に勅選せられ同三十八年三月特旨を以て華族に列し男爵を授けらる又曾て本邦海軍部内脚氣病豫防策を建議し闕下に伏奏する事三回遂に該策を實行して同病の消滅を見るを得たり同三十八年十二月米國コロンビヤ大學の求めに應し同地に航し我軍隊日露戰役軍事衞生に就きて講義し尋て歐米諸國を巡歷し同三十九年七月歸朝す現時貴族院議員たるの外東京慈惠會理事同醫院長同醫學專門學校長中央衞生會委員及前記會社の顧問兼審査醫長等を兼ぬ
家族は前記の外孫育(明四四、九生、三男舜三二女)同貞一(大二、七生、同長男)あり
長女寬(明一八、六生)は新潟縣平民ドクトル、メヂチーネ樋口繁次に嫁せり
住所・電話番号東京、麻布、東鳥居坂町一三 電話芝三五三五
参照人物(親類)高木喜寬高木兼二、三井三郞助
参照次数8 (※なし6)
読みたかぎ かねひろ
別名
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