高橋是清 (第4版 [大正4(1915)年1月] の情報)
位階・勲等・功級 | 正四位、勳一等 | |
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爵位・身分・家柄 | 男爵、東京府華族 | |
職業 | 貴族院議員 | |
性別 | 男性 | |
生年月日 | 安政元年七月二十七日 (1854) | |
親名・続柄 | 高橋是忠の長男 | |
家族 | 妻 しな 慶應元、九生、鹿兒島、士、原田金左衞門長女 男 是賢 明一〇、三生、從五位、臺東拓殖製糖株式會社取締役 婦 愛子 明二一、一二生、長男是賢妻、伯爵黑木爲楨二女 男 是孝 明二六、六生 | |
記述部分(略伝) | 君は舊仙臺藩士故高橋是忠の長男にして安政元年七月二十七日に生る慶應年間藩命を以て橫濱に出て英學を研習し明治二年開成學校に入る後大學少教授に任し尋て文部省十等出仕に拔擢せらる爾來大阪英語學校長農商務省調査課長同商標登錄所長同專賣特許局長兼東京農林學校長等に歷任し同二十三年職を退き秘露銀山事件の全權委員となりて秘露に航し斡旋頗る努め終に事件を解决して歸朝す同二十五年日本銀行に入りて建築事務主任となり漸次昇進して同行副總裁に至り橫濱正金銀行頭取を兼ね橫濱商業會議所特別議員に擧けらる尋て日本銀行總裁に推され大正二年二月山本内閣の成るに及ひ君之に列して大藏大臣たりしが同三年内閣の瓦解と共に挂冠せり先是日露の役起るに及ひ財務官として歐米諸國に差遣せられ又平和克復の後外債處分の爲め再び海外に渡航し共に偉大の功勳を樹て歸朝し同四十年特旨を以て華族に列し男爵を授けらる曩に貴族院議員に勅選せられ現に其任に在り 家族は前記の外六男是彰(明三四、一生)孫照(大元、一二生、長男是賢次女)養子眞喜(明四二、八生、東京、平、高橋是利長女)あり 二男是福(同一四、六生)は其妻多美(同一四、八生、神奈川、平、守安瀧三郞二女)及子女を從へて分家し三女和喜子(同二四、五生)は侯爵大久保利和弟利賢に嫁せり | |
住所・電話番号 | 東京、赤坂、表町三ノ一〇 電話新橋一七二〇 | |
参照人物(親類) | 伯爵黑木爲楨、大久保利賢、※川田鷹 | |
参照次数 | 3 (※なし2) | |
読み | たかはし これきよ | |
別名 |