伊藤博邦 (第4版 [大正4(1915)年1月] の情報)
位階・勲等・功級 | 從三位、勳三等 | |
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爵位・身分・家柄 | 公爵、神奈川縣華族 | |
職業 | 式部次長、貴族院議員 | |
性別 | 男性 | |
生年月日 | 明治三年二月二日 (1870) | |
親名・続柄 | 井上五郞三郞の子 * | |
家族 | 養母 梅子 嘉永元、一一生、山口、平、木田幾三郞姉 妻 たま 明一四、五生、神奈川、士、高島嘉兵衞養妹 男 博精 明三二、五生 養弟 眞一 明二三、七生、亡養父博文庶子男 | |
記述部分(略伝) | 當家は先代博文より顯はる博文は舊山口藩士夙に勤王の大志あり維新前後國事に盡して名漸く揚かり次て歐洲に航し泰西の文物制度を視て征韓論を斥け西南の役謀を帷幄の中に運らして功あり明治十七年伯爵を授けられ同十八年天津條約を定め樞密院議長貴族院議長等に歷任し日清戰役の當時内閣總理大臣たりしが清國和を請ふや全權辨理大臣として馬關條約を締結し同一十八年侯爵に陞し大勳位に叙せられ菊花大授章を授けらる我邦元勳として國事に參し日露事件の功に依り同四十年公爵を授けらる後韓國と條約を締結して統監に親任せられ力を韓國の扶殖開發に傾注し同國大傅として皇太子輔弼の大任に當り特に同國親王の待遇を享く同四十二年官を辭し同十月滿洲を視察し哈爾賓に至り不幸にして韓人の兇手に斃る其功績の加きは普く世人の知る所なり君は其後を襲く 君實は侯爵井上馨の甥にして明治三年二月二日を以て生れ同十一年六月入籍し後幼名勇吉を改稱す男爵伊藤文吉は養弟にして井上勝之助森祐三郞は君の實兄なり夙に職を宮内省に奉じ現時式部次長たり位階從三位に進み勳三等に叙せらる 家族は前記の外二男博春(明三四、四生)三男博通(同三五、九生)長女琴子(同三六、一〇生)二女愛子(同三九、八生)五男博忠)同四二、三生)六男博巨(同四五、一生)七男博則(大二、三生)あり 養妹朝子(明九、二生)は山口縣士族西源四郞に養姉生子(同元、八生)は子爵末松謙澄に嫁せり | |
住所・電話番号 | 東京、荏原、大井町 電話芝六〇五 | |
参照人物(親類) | 侯爵井上馨、子爵末松謙澄、男爵伊藤文吉、高島嘉兵衞、西源四郞、井上勝之助、森祐三郞、※高島長政 | |
参照次数 | 9 (※なし7) | |
読み | いとう ひろくに | |
別名 | 勇吉 |