安達峯一郞 (第4版 [大正4(1915)年1月] の情報)
位階・勲等・功級 | 從四位、勳一等 | |
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爵位・身分・家柄 | 山形縣平民 | |
職業 | 法學博士、特命全權公使(墨國駐劄) | |
性別 | 男性 | |
生年月日 | 明治二年六月十九日 (1869) | |
親名・続柄 | 安達久の長男 | |
家族 | 母 しう 嘉永二、三生 妻 鏡子 明三、一〇生、山形、士、高澤佐德長女 男 太郞 明二九、一生 女 萬里 明三〇、一〇生 弟 隆治郞 明一一、九生 弟妻 ヤマ 明二一、三生、弟隆治郞妻、福島縣人根本六三郞三女 | |
記述部分(略伝) | 君は山形縣平民安達久の長男にして明治二年六月十九日を以て生れ同二十四年十二月家督を相續す同二十五年七月東京帝國大學法科大學を卒業し法學士の稱號を得同九月外務省試補を命せられ又和佛法律學校及明治法律學校講師を囑託せらる同二十六年七月公使館書記生に任し伊國に在勤同十一月外交官補に同二十八年十一月公使館三等書記官に任し同三十年二月佛國在勤を命せられ七月巴里大博覽會事務官を命せらる同十一月公使館二等書記官に進み同三十五年二月公使館一等書記官に陞さる同三十六年十月佛國在勤を免せられ臨時外務省の事務に從事し同十一月東京高等商業學校專攻科外交史講座擔任並に硏究指導を囑託せらる同三十七年外務省參事官に兼任し捕獲審撿所評定官に任せらる同三十八年媾和全權委員隨員として米國に差遣され同三十九年二月外務省參事官に專任し同四十年六月法學博士の學位を受く同四十一年十月大使館參事官に任し巴里在勤被仰付後ち特命全權公使に陞り墨國駐劄仰付られ現に其任にあり夫人鏡子は女子高等師範學校卒業後山形尋常師範學校助教諭兼舍監となり二十七年四月伊國に赴き同三十年巴里に轉し三十六年歸朝同三十九年六月東宮御用掛を拜命す 家族は前記の外姪壽子(明四四、二生、弟隆治郞二女)同喜久子(大元、一〇生、同三女)あり 妹きみ(明一六、五生)は山形縣士族今井治郞三郞弟秀松に同じゆん(同一八、一一生)は法學士仲谷芳雄に長女功(同二六、一二生)は遞信大臣武富時敏長男敏彦に嫁せり | |
住所・電話番号 | 在墨國、日本公使館 | |
参照人物(親類) | 今井治郞三郞、武富時敏 | |
参照次数 | 2 (※なし2) | |
読み | あだち みねいちろう | |
別名 |