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平松時厚 (初版 [明治36(1903)年4月] の情報)

位階・勲等・功級從三位、勳四等
爵位・身分・家柄子爵、錦鷄間祗候、舊公卿
職業貴族院議員、東京火災保險株式會社長
性別男性
生年月日弘化二年九月十一日 (1845)
親名・続柄 平松時言の三男
家族妻 嘉代子 嘉永六年八月生京都府平民八見恒民養女
男 時陽 明治六年十月生
同 時冬 明治十四年一月生
弟 晋海 嘉永二年九月生
大伯母 後正 天保三年十二月生
妹 好子 嘉永四年四月生
女 忠子 明治三年六月生
同 周禪 明治九年五月生
同 花子 明治二十年二月生
記述部分(略伝)當家は從三位權中納言平時庸の後なり時庸分れて平松と稱す後十一代を經て君に至る
君は先代從二位時言の三男にして弘化二年九月十一日を以て生る安政二年八月元服して昇殿を聽され甲斐權介に任ず戊辰の役仁和寺宮に從ひて轉戰し軍防事務局親兵掛を仰付られ明治三年六月新潟縣知事に任じ同十四年八月麴町區長に擧げられ同十六年五月宮内省奏任御用掛を同十七年二月司法省准奏任御用掛を命ぜられ同十八年三月檢事に任じ東京控訴院裁判所詰を仰付られ同年七月勳五等旭日雙光章を賜ひ同廿年十二月正四位に進み同廿三年六月元老院議官に任じ同七年貴族院議員となる同年十月錦鷄間祗候を仰付られ同年十二月勳四等瑞寶章を賜ひ同廿六年六月從三位に叙せられ同卅年七月貴族院議員に再選せられたり
弟行正(文久二年五月生)は分家し同時幾(嘉永六年六月生)は靜岡縣士族本多利實長女かねの養子となり女達子(明治七年四月生)は新潟縣平民川上善兵衞に同速子(同十四年十一月生)は子爵木下俊哲に嫁し同美津子(同十年四月生)は公爵近衞篤麿の養女となり
男時安(同十六年一月生)女花子(同二十年二月生)同貞子(同二十五年五月生)は家にあり
住所・電話番号東京市赤坂區山南町六ノ一二七
参照人物(親類)公爵近衞篤麿、子爵木下俊哲
参照次数2
読みひらまつ ときあつ
別名