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山科禮藏 (第8版 [昭和3(1928)年7月] の情報)

位階・勲等・功級正六位
爵位・身分・家柄東京府在籍
職業東京商工會議所議員、南米土地(株)代表取締役、山科汽船京濱運河各(株)監査役、南米企業組合理事長、日本羅甸亞米利加協會副會長、水難救濟會、海軍協會各理事、日本海員掖濟會常議員、船舶運送業
性別男性
生年月日元治元年正月 (1864)
親名・続柄 山科良影の長男
家族養子 良夫 明三八、一生、弟幸三郞長男
記述部分(略伝)當家は數百年以來の素封家にして世々學を以て聞ゆ祖勝島惟德は伊藤仁齋の高弟にして垂裕嘉言の著書を以て知られ詩人菅茶山は君の外祖父たり
君は廣島縣人先代良影の長男にして元治元年正月を以て生れ明治十六年家督を相續す同五年廣島遷喬舍に英學を修め鄕校櫻南舍に漢學を學ぶ同十七年志を立てゝ東都に出で同二十三年獨力海事工業所を創設して遭難船貨物の引揚に從事し大正六年に至る迄二十七年間内外汽船及貨物の救助せるもの百餘雙に迨ぶ明治三十五年廣島縣より推されて衆議院議員に當選し大正六年より同十四年に至るまで東京商業會議所副會頭に學げらる其間日支經濟提携の爲め支那に出張し又全國商業會議所聯合會及東京商業會議所を代表し實業特使として二ケ年に亘り世界各國を巡遊し尋で著名銀行會社二十六團體の代表者を以て南米視察實業團を組織し同團長として南米各國を視察す其他曾て産業調査會委員帝國經濟會議々員大震災前後會副會長等に推され現時前記諸會社の重役並に諸團體の役員たり海外發展及海運界の功勞者として知られ「鵬程萬里」「大改造期の世界」等の著書あり大正五年多年海事工業に盡したる廉に依り綠綬褒章を下賜せられ又佛國政府よりコンマンドール・ドラゴン・ドランナン勳章を授けらる
家族は尚弟幸三郞(明二、一二生)同妻うの(同二四、六生、大阪、石村林吉養子)あり
姪榮子(同三〇、六生、弟幸三郞長女)は絶家勝島氏を再興し養子由己子(同二八、一二生、弟愼次郞長女)は醫學博士增田二郞に嫁せり
住所・電話番号東京、麻布、櫻田町三八 電青山三三四〇、七七五七
参照人物(親類)
参照次数
読みやましな れいぞう
別名
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