山縣有朋 (第4版 [大正4(1915)年1月] の情報)
位階・勲等・功級 | 正二位、大勳位、功一級 | |
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爵位・身分・家柄 | 公爵、舊山口藩士 | |
職業 | 元帥、陸軍大將、樞密院議長、議定官、貴族院議員 | |
性別 | 男性 | |
生年月日 | 天保九年四月二十二日 (1838) | |
親名・続柄 | 山縣三郞の長男 | |
家族 | 養嗣子 伊三郞 安政四、一二生、山口、士、勝津兼亮二男 | |
記述部分(略伝) | 君は天保九年四月二十二日を以て生れ父三郞の長男なり少壯勤王の議を唱へ奇兵隊の魁首として高杉晉作と共に俗論黨を壓し山縣狂介の名は夙に中外に知らる維新の際越後口の參謀となり次年歐洲を視察し歸朝後陸軍中將に任せられ尋て陸軍卿の重任に就き徵兵令を起草し本邦徵兵制度の基礎を定む爾來本邦軍政首班の衝に當れり其官歷を揭くれは陸軍大臣内務大臣司法大臣參謀本部總長等にして内閣總理大臣たること二回明治四十二年以來樞密院議長となり現に其任に在り明治十年西南役には陸軍卿として樞機を掌握し同二十七八年日清戰役には第一軍司令官として滿洲に出征し同三十七八年日露戰役の際には參謀總長として偉功あり明治三十一年特に元帥の稱號を賜はれり先是明治十七年華族に列し一躍伯爵を授けられ同二十八年侯爵に同四十年公爵に陞爵正二位に叙せられ大勳位菊花頸飾章を賜はり元帥として高位高勳一世の重望を擔ひ當代元老の故參たり 二女松子(明一一、八生)は男爵船越光之丞に嫁し長男朋輔(同二二、七生)は山口縣人萩原鹿之助の絶家を再興せり | |
住所・電話番号 | 東京、小石川、關口町一四七 電話番町三九・四四 | |
参照人物(親類) | 男爵船越光之丞、山縣伊三郞 | |
参照次数 | 2 (※なし2) | |
読み | やまがた ありとも | |
別名 |