内藤政擧 (4th Edition [January 1915] )
Rank/ Honors/ Grade | 正三位 | |
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Title/ Family rank etc. | 子爵、舊日向國延岡藩主 | |
Occupation | 宮崎縣多額納税著 | |
Gender | 男性 | |
Birthday | 嘉永三年五月十日 (1850) | |
Parent and relation | 太田資始の三男 | |
Family | 妻 英子 明六、四生、子爵堀河護麿叔母 男 政道 明三六、一〇生 男 政邁 明二六、七生、學習院高等科在學中 女 房子 明三一、六生、學習院女學部在學中 | |
Biography | 當家は大職冠鎌足の曾孫左大臣魚名の男伊豫守藤成の曾孫鎭守府將軍秀鄕十二代の孫内藤家清の裔なり家清始めて德川氏に屬して上野の城に在り孫家長德川家康に仕へて功あり天正十八年上總國佐貫の城主として二萬石を賜ふ家長慶長庚子の役鳥居元忠と伏見城に據り關西の大軍に當りて之に死す其子左馬助政長元和元年岩城平に封せられ七萬石を領す後九代の孫備後守政樹に至り日向國延岡に移封さる夫れより數世を經て從四位政義に至る君其後を嗣く 君實は從四位下備中守太田資始の三男にして子爵太田資業の大叔父なり嘉永三年五月十日を以て武州駒込に生れ幼名を寬次郞と稱す萬延元年九月先代政義の養子となり文久二年十月其封を襲き同年十二月從五位下に叙し明治二年六月延岡藩知事に任し同十四年宮中祗候仰付けられ同十七年子爵を授けられ同十九年青山御所勤務仰付けらる同二十二年官を罷め爾來閑地に在り君夙に意を育英事業に注き曩きに私立延岡高等女學校延岡高等女子職業學校同平尋常高等小學校亮天社天眞社等の學舍設立に盡瘁し巨萬の資を投して幾多の子弟を教育せり其成積顯著なるを以て同四十年十月藍綬褒章を賜ひて其德を表彰せらる( 家族は前記の外五男政恒(明四〇、七生)あり 二女珠子(同二一、四生)は伯爵室町公藤叔父滿三郞に嫁せり | |
Address phone | 宮崎、東臼杵、岡富村 | |
Relative | 伯爵室町公藤,子爵堀河護麿,子爵太田資美 | |
Degree | 4 (except※4) | |
Pronounciation | ないとう まさたか | |
Another name | 寬次郞 |
JINJIKOSHINROKU (who's who)
- First Edition [April 1903]
- 4th Edition [January 1915]