犬養毅 (第4版 [大正4(1915)年1月] の情報)
位階・勲等・功級 | 正三位、勳三等 | |
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爵位・身分・家柄 | 東京府平民 | |
職業 | 衆議院議員(岡山縣郡部選出) | |
性別 | 男性 | |
生年月日 | 安政二年四月二十日 (1855) | |
親名・続柄 | 犬養源左衞門の二男 | |
家族 | 妻 千代 慶應元、九生、東京、平、三田仙之助姉 男 彰 明二一、九生 | |
記述部分(略伝) | 君は岡山縣平民故犬養源左衞門の二男なり安政二年四月二十日を以て生る父は水莊と號し板倉藩の鄕士なり君幼にして森田月瀨翁の門に遊び長して犬養杉窻の門に入り漢學を修め明治七年東京に出で藤田茂吉に寄食す報知新聞に寄稿して學資を得慶應義塾に入り刻苦切磋遂に業を卒へ報知社員となる西南の亂通信員として戰地に奔走し名漸く現はる時僅に二十二歳同十四年擢てられて統計院權少書記官に任し正七位に叙せらる大隈伯冠を掛くるに及びて連袂職を辭し再ひ報知社に入り文筆に從事す立憲改進黨組織の事起るや其黨員となり盡す所あり此歳東京府會議員に選ばれ同十八年朝野新聞に入り更に轉じて尾崎行雄等と報知社に執筆す同二十三年選ばれて衆議院議員となり爾來今日に至り初期以來の代議士なり同三十一年六月憲政黨内閣成るに及び文部大臣に任ぜられ正三位に叙せらる幾くもなく職を辭し憲政本黨の總務委員として專ら黨務に鞅掌せしが新たに立憲國民黨の成立するや君大に畫策する所あり其領袖として黨員を率ひ大正二年早春桂内閣に反對して憲政擁護を唱へ全國を震撼し終に同内閣を仆せり 家族は前記の外二女信(明三八、一二生)男健(同二九、七生)あり 長女操(同一九、九生)は新潟縣平民芳澤謙吉に養子みつ(同一五、一〇生、東京、平、齋藤セン女)は岡山縣平民仁科德三郞に嫁せり | |
住所・電話番号 | 東京、牛込、馬塲下町三五 電話番町四〇 | |
参照人物(親類) | 芳澤謙吉、仁科德三郞 | |
参照次数 | 3 (※なし2) | |
読み | いぬかい つよき | |
別名 |