嘉納治五郞 (第4版 [大正4(1915)年1月] の情報)
位階・勲等・功級 | 正四位、勳二等 | |
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爵位・身分・家柄 | 兵庫縣平民 | |
職業 | 東京高等師範學校長 | |
性別 | 男性 | |
生年月日 | 萬延元年十月二十八日 (1860) | |
親名・続柄 | 嘉納次郞作の三男 | |
家族 | 妻 須磨 明六、九生、東京、士、竹添進一郞二女 男 履正 明三三、一一生 女 範子 明二六、一〇生、學習院女學部出身 女 忠子 明二八、六生、學習院女學部出身 女 爽子 明三一、八生、學習院女學部在學 女 希子 明三二、九生、學習院女學部在學 | |
記述部分(略伝) | 君は兵庫縣平民嘉納次郞作の三男にして萬延元年十月二十八日を以て生れ明治二十四年六月分家して一家を創立す同十四年東京大學文學部政治學及理財學科を卒業し文學士の稱號を得同十五年學習院の講師となり同十八年學習院幹事兼教授に任し同二十二年歐洲に差遣せられ歸朝後文部省參事官に任せらる同年第五高等中學校長兼文部省參事官となり同二十六年文部省參事官に專任す爾後第一高等中學校長兼文部省參事官高等師範學校長等に歷任し同三十一年普通學務局長に轉し同三十四年東京高等師範學校長となり現時其職にあり君又柔道に達し明治十五年下谷に弘道館を興し柔道の指南をなし後道場を小石川區下富坂町に移し益斯道の興隆に努む 家族は前記の外三男履方(明四五、五生)五女篤子(同四〇、六生)あり 長男履信(同三〇、三生)は東京府士族竹添進一郞の養子となれり | |
住所・電話番号 | 東京、小石川、大塚坂下町一一四 電話番町六一一 | |
参照人物(親類) | ||
参照次数 | ||
読み | かのう じごろう | |
別名 |
人事興信録
- 初版 [明治36(1903)年4月]
- 第4版 [大正4(1915)年1月]
- 第8版 [昭和3(1928)年7月]