原口要 (第4版 [大正4(1915)年1月] の情報)
位階・勲等・功級 | 從四位、勳三等 | |
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爵位・身分・家柄 | 東京府士族 | |
職業 | 工學博士、富士製紙株式會社專務取締役、東海紙料株式會社取締役 | |
性別 | 男性 | |
生年月日 | 嘉永五年一月九日 (1852) | |
親名・続柄 | 進藤伊織の三男 ** | |
家族 | 妻 はる 明二、三生、長野、士、大村鋿太郞姉 男 武夫 明二八、九生 | |
記述部分(略伝) | 君は舊島原藩士にして嘉永五年一月九日を以て生れ後叔父謙介の養子となる明治四年大學南校に入り更に開成學校に學ふ同八年米國留學を命せられ米國土木工學士の稱號を受く直にペンシルベニヤ鐵道會社に聘せられて其技師となり建築工事一區間の主任となる同十三年歐洲各國を遊歷して歸朝し同年十一月東京府技師長に任し官設鐵道工部技長を兼ね東京市區改正の計畫高橋吾妻橋の架設北陸鐵道日本鐵道東海道線甲武等の工事設計監督は咸君の手に成りたるものにして實に邦人の技師に依る設計の嚆矢とす同二十一年工學博士の學位を授けられ二十六年鐵道技監に任し奥羽中央山陰鹿兒島諸線の計畫及施工に關する業務及營業線一般工務を監督す二十七八年役に際しては大本營附を命せられ臨時鐵道隊を組織し作業員の業務を監督す三十年官を辭して臺灣鐵道大阪鐵道等の顧問となりしか三十八年再ひ遞信省鐵道顧問に任せられ兼て清國政府鐵路顧問官として其經營の議に參り兩國鐵道界の接近及ひ提携に盡力せり現時前記諸會社の重役たり 家族は尚は四男信雄(明三〇、一一生)三女操(同三八、八生)あり 長女喜久代(同二三、一二生)は茨城縣平民大貫清七二男龍城に二女松代(同二六、三生)は山梨縣平民宮澤房藏長男源吉に嫁せり | |
住所・電話番号 | 東京、芝、公園五號一一 電話芝四七一六 | |
参照人物(親類) | 大村鋿太郞 | |
参照次数 | 3 (※なし1) | |
読み | はらぐち かなめ | |
別名 |