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杉浦重剛 (第4版 [大正4(1915)年1月] の情報)

位階・勲等・功級從六位
爵位・身分・家柄東京府平民
職業東宮御學問所御用掛、私立日本中學校長
性別男性
生年月日安政二年三月三日 (1855)
親名・続柄 杉浦重文の二男
家族妻 久壽猪 慶應二、六生、高知、士、千頭清臣妹
男 眞鐵 明一九、七生、林學士
男 鐵彦 明二四、三生
男 晃 明二五、八生
男 鐵若 明二八、二生、外國語學校在學
女 梅 明三三、八生、御茶水高等女學校在學
記述部分(略伝)君は舊膳所藩士杉浦重文の二男にして安政二年三月三日を以て生れ明治十四年十月分家して一家を創立す少にして藩儒高橋作也黑田行元に就き漢學及蘭學を修め後ち京都の儒巖垣月洲の門に入り經史を學ひ明治三年貢進生に擧げられ大學南校に入れり同九年六月文部省の命に依り化學修業の爲め英國に留學し同十三年五月歸朝東京大學理學部博物場取締文部省準奏任御用掛となり博物場並に植物園を管理し同十五年東京大學豫備門長東京大學寄宿舍取締となり同二十一年七月文部省參事官兼學務局次長に任せられ同二十三年滋賀縣より推されて初期衆議院議員に選はる明治三十年六月高等教育會議議員仰付られ現に其任にあり元私立東京英語學校は君の經營する所其後身は即ち日本中學校にして校長として育英の業に膺れり君夙に西洋理學思想を注入して文明の發達を提撕すると共に國粹主義を唱道して西洋模倣主義を排し東洋學藝雜誌雜誌日本人及び日本新聞を發刊し文運に貢献する所あり稱好塾を設けて學生を監督し故中村正直の依托を受けて同人社を再興し故近衞公爵の囑により東京同文書院長並に東亞同文書院長となり國學院學監又は皇典講究所幹事長たる等本邦教育界の耆宿として世人の推重を受く大正三年五月特に東宮御學問所御用掛の重任を仰付けらる君の榮や大なりと云ふべし
家族は前記の外六男喜彦(明三一、一生)七男重郞あり
二女きく子(明一七、七生)は朝鮮總督府京城高等普通學校教諭文學士上田駿一郞に嫁せり
住所・電話番号東京、小石川、茗荷谷町五二
参照人物(親類)千頭清臣
参照次数1 (※なし1)
読みすぎうら じゅうごう
別名
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