元田肇 (第4版 [大正4(1915)年1月] の情報)
位階・勲等・功級 | 正四位、勳四等 | |
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爵位・身分・家柄 | 東京府平民 | |
職業 | 衆議院議員(大分縣郡部選出) | |
性別 | 男性 | |
生年月日 | 安政五年一月十五日 (1858) | |
親名・続柄 | 猪俣榮造の二男 ** | |
家族 | 妻 キク 元治元、一生、東京、平、元田傅姉 男 敏失 明一五、五生 婦 道 明二二、一生、長男敏夫妻、靜岡、平、内田正六女 男 光夫 明二八、一生 女 美子 明二九、六生 女 澄 明三三、一二生 | |
記述部分(略伝) | 君は大分縣平民猪俣理吉の弟にして安政五年一月十五日を以て生れ元田直の養子となり明治二十三年三月家督を相續す年甫て十三元田直に就き國史を修む直其凡ならざるを見て養嗣子となし配するに其女を以てす明治五年開拓使學校貸費生となり後開成學校に學び同十年東京大學に入り同十三年法科大學を卒業して法學士の稱號を得代言事務に從事せり同二十三年大分縣第一區より選出せられて衆議院議員となり爾後選擧每に當選して現時其職に在り曩に日露事件の功に依り勳四等に叙せらる君曾て國民協會に入り後帝國黨に所屬し同三十二年立憲政友會の組織せらるゝや入りて其總務委員に擧らる又曩に衆議院副議長たりしことあり明治四十年拓殖局總裁となり大正二年二月山本内閣に列して遞信大臣に任ぜられ後同内閣の瓦解と共に挂冠野に下れり 家族は前記の外六男正夫(明三二、六生)六女貞子(同三九、六生)孫田鶴子(同四四、六生、長男敏夫長女)同信太郞(大二、六生、同長男)あり 長女ハナ(明二二、四生)は茨城縣平民吉川浩に三女千鶴(同二六、八生)は男爵小畑大太郞弟敏四郞に嫁せり | |
住所・電話番号 | 東京、麴町、紀尾井町八 電話番町八九〇 | |
参照人物(親類) | 男爵小畑大太郞、元田傳、内田正、※馬渡俊雄 | |
参照次数 | 4 (※なし3) | |
読み | もとだ はじめ | |
別名 |