三浦梧樓 (第4版 [大正4(1915)年1月] の情報)
位階・勲等・功級 | 從二位、勳一等 | |
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爵位・身分・家柄 | 子爵、舊山口藩士 | |
職業 | 後備陸軍中將、樞密顧問官 | |
性別 | 男性 | |
生年月日 | 弘化三年十一月十五日 (1847) | |
親名・続柄 | 五十部吉平の二男 | |
家族 | 妻 愛子 安政元、一二生、東京府人小田切仲太郞長女 男 松二郞 明一五、三生、二男大一養子、從五位 婦 アキ 明二二、一生、三男松二郞妻、神奈川、平、原牧三二女 男 大一 明一〇、一生 | |
記述部分(略伝) | 君は舊山口藩士五十部吉平の二男にして弘化三年十一月十五日を以て生る明治三年召されて兵部權少亟に任せられ後陸軍大佐兼兵部權大亟に進み爾後身を軍籍に列し西南の役に旅團司令官として從軍し偉勳を樹て同十一年陸軍中將に任せらる後陸軍士官學校長に補せられ同十七年時の陸軍卿大山巖に隨行して渡歐し各國の兵制を視察せり遣外中特旨を以て華族に列し子爵を授けらる後東京鎭臺司令官士官學校御用掛熊本鎭臺司令官等を歷て同二十一年豫備役仰付られ宮中顧問官兼學習院長となり同二十三年貴族院議員に當選し幾くもなくして之を辭せり同二十九年特命全權公使に任し韓國に駐剳し王妃殺害の擾亂起るや君以下の館員嫌疑を受け禁錮の厄に遭ひ後釋放せらる同四十一年後備役仰付らる四十三年十月樞密顧問官に任せられ現に其職にあり君又憲政本黨の客將として盡瘁せり 家族は前記の外孫伊佐子(明四四、七生、三男松二郞長女)同矢一(大元、九生、同長男)同哲二(同二、九生、同二男)あり 二女ムシ(明一一、八生)は陸軍中將男爵上田有澤養子兵吉に四女竹(同一八、二生)は山口縣人梅地庸之亟長男璉造に嫁し四男三吉(同一六、九生)長女京(同八、八生)は各分家し庶子女登美子(同三五、八生)同男鶴三郞(同四〇、二生)は共に其生母井上よ〓の養子となれり | |
住所・電話番号 | 東京、小石川、中富坂町一八 電話番町四八六 | |
参照人物(親類) | 男爵上田有澤 | |
参照次数 | 1 (※なし1) | |
読み | みうら ごろう | |
別名 |