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北畠治房 (第4版 [大正4(1915)年1月] の情報)

位階・勲等・功級從二位、勳二等
爵位・身分・家柄男爵、舊奈良藩士
職業
性別男性
生年月日天保四年正月元旦 (1833)
親名・続柄 北畠末重の四男
家族妻 三枝 天保九、七生、奈良、士、豊田右仲三女
男 具雄 安政元、四生、正五位勳四等
婦 カン 文久元、六生、長男具雄妻、奈良、平、春木義彰養子
孫 房子 明二六、二生、長男具雄長女
記述部分(略伝)君は大和國法隆寺鄕士北畠末重の四男にして天保四年正月元旦を以て生れ嘉永二年二月家督を相續す夙に漢書を碇圓意に國典を尾崎庄左衛門に武を柴田多輔に兼修し嘉永年間外交の事起るや國事に奔走して危險を冐し姓名を變すること二十四回明治維新の際は九州にありしか同士を將ひて上京大總督熾仁親王を駿府に追蹤し爾來宮の帷幕に參す明治四年正院御用を命せられ同五年左院中議生となる後司法省に轉し權少判事に任し爾來少判事權中判事判事に累進し其間京都裁判所長橫濱裁判所長大審院判事等に歷補せらる同十四年官を辭し河野敏鎌牟田口元學春木義彰中野武營等と共に修進社を興し普く詞訴の鑑定に應せしか同二十年再仕官して檢事に任し東京控訴院檢事長となり後同院評定官大審院評定官を經て同二十四年大阪控訴院長に榮轉す同二十九年勳功により特に華族に列し男爵を授けらる同三十一年官を辭し同四十一年貴族院議員に當選せしも目下閑地に在り曾て老軀を提けて神武東征之眞相と題する一書を著はし現行記紀の錯亂逸脱の實地に照して辯難する所あり專ら古史を研鑽しつゝあり夫人三枝子亦賢婦人にして年十六北畠氏に嫁し所夫不在中空閨を守りて老姑に侍し以て家政に勉め奈良府の時賞狀並に金圓を賜はりしと云ふ以て其日常を窺ふ足る
長男具雄は慶應義塾に學ひ内務司法の各省に奉仕せしか明治十九年官を辭し實業界に入り北海道汽船會社を興して社長となり其他夕張炭山險留爾山硫黃採掘等に從事せり同三十年以來衆議院議員に當選すること二回に及ふ二男秀雄(安政三、一一生)は其子女を伴ひ分家し長女シケ(慶應三、一〇生)は岡山縣平民東良三郞に嫁し孫秀(明一二、八生、長男具雄長男)は絶家村上氏を再興せり
住所・電話番号奈良、生駒、法隆寺村
参照人物(親類)東良三郞
参照次数1 (※なし1)
読みきたばたけ はるふさ
別名
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