佐藤進 (初版 [明治36(1903)年4月] の情報)
位階・勲等・功級 | 從四位、勳二等 | |
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爵位・身分・家柄 | ||
職業 | 醫學博士、佐藤病院順天堂院長 | |
性別 | 男性 | |
生年月日 | 弘化二年十一月廿五日 (1845) | |
親名・続柄 | 高和清右衛門の長男 ** | |
家族 | 妻 しつ 嘉永四年十二月生 男 昇 明治九年七月生 養女 操 明治十一年五月生千葉縣平民大野傳兵衞女 養子 達次郞 明治元年十月生福井縣人河合清一郞弟 養女 竹 明治十六年三月生東京府平民沼田伊八長女 | |
記述部分(略伝) | 君は弘化二年十一月廿五日を以て常陸國久慈郡太田町に生る本姓は高知氏家世々酒造を業とす君幼より頴敏讀書を好み家業を治むるの意なし母堂其の強ふべからざるを覺り意を決し舊佐倉藩醫佐藤尚中に君の一身を托す時に年十五佐倉の文學者績豐德に漢學を學び次で蘭學を修む學業儕輩の上に出づ尚中繼子なく頴敏の子弟を擧げて養子となさんと欲し竊に秀才を索む君其の鑑識に叶ひ遂に養子となる學業益々進む戊辰の役總督の宮に從ひ白河三春等に病院を開き日夜負傷者の治療に從事し次で陸軍大病院頭取を命ぜらる明治二年君本邦に在て醫學の蘊奧を極むること能ざるを察し自費を以て獨逸に航す海外旅行券を得たるは實に君を以て本邦の嚆矢となす翌年伯林大學に入る偶々普佛戰爭あるや諸大家に親灸し負傷兵の治術を研究し爾來螢雪の勞を積み同七年優等にて同大學を卒業し醫學士の稱號を領す小兒下痢病理及び治療書を著はし大に大學社會の賛稱を博し轉じて墺國維納府に遊ぶ偶々父尚中大患の報に接し同八年歸朝す此の年順天堂病院の新築竣功を告ぐ父尚中を扶けて治療に從事し傍ら教鞭を採り外科通論八卷外科各諭十八卷を著はす明治十年陸軍々醫監に任ぜられ西南の役に陸軍臨時病院長となり大阪に出張し日夜官軍の負傷者を治療し大に功績あり同年從五位に叙せられ同十一年勳四等に叙せらる同十二年西部檢閲監軍部長屬員を同十五年陸軍病院長を同十七年東京大學醫學部講師を命ぜられ同十八年正五位勳三等に叙せられ同十九年辭職す同二十一年醫學博士の學位を授けらる爾後專ら順天堂病院に刀を執る同廿二年大隈伯遭難に際し君之を治療す同廿四年從四位に叙せらる同年愛知岐阜兩縣下震災あるや君自費を以て負傷者を救療す歸京後皇后陛下君の功勞を聞召され御賞詞あり且つ銀製湯鑵一箇を賜はる同廿八年日清媾和談判開會中李鴻章遭難に際し勅命に依り治療の任に當り大に名聲を博す同年勳二等に叙せらる患者順天堂に治を請ふもの日に多きを加ふ 妹さち(明治七年一月生)は群馬縣人今泉嘉市郞に養女なつ(同八年三月生茨城縣平民高橋才平女)は東京府士族眞水英夫に養女きく(同九年九月生茨城縣平民高橋金三郞女)は岩手縣人田中苗太郞に嫁せり養子恒久(文久二年七月生)は其婦梅尾(明治四年五月生)及び其の子ふみ(同二十五年九月生)同彰(同卅一年十二月生)同浩(同卅二年八月生)同健(同三十四年五月生)と共に養弟福待(同八年十月生)は各分家せり | |
住所・電話番号 | 東京府下北豐島郡巢鴨元上駒込二三〇 電話下谷三七七 順天堂病院東京市本鄕區湯島五ノ一〇 電話特下谷三七八下谷三六九 | |
参照人物(親類) | 田中苗太郞、佐藤佐、三宅秀 | |
参照次数 | 3 | |
読み | さとう すすむ | |
別名 |