高島鞆之助 (初版 [明治36(1903)年4月] の情報)
位階・勲等・功級 | 從二位、勳一等 | |
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爵位・身分・家柄 | 子爵、舊鹿兒島藩士 | |
職業 | 樞密顧問官、豫備陸軍中將 | |
性別 | 男性 | |
生年月日 | 弘化元年十一月九日 (1844) | |
親名・続柄 | 高島喜兵衞の四男 | |
家族 | 母 貞子 文化九年七月生鹿兒島縣士族故堀八郞右衞門女 妻 春子 安政元年五月生鹿兒島縣士族山口喜三右衞門長女 養子 友武 慶應三年三月生伯爵吉井幸藏弟 女 多嘉 明治六年八月生養子友武妻 | |
記述部分(略伝) | 君は舊鹿兒島藩士高島喜兵衞四男弘化元年十一月九日を以て鹿兒島に生る幼名昭光と稱し文久二年元藩主に從ひ上京し諸藩の志士と交を結ぶ明治元年監軍に任ぜられ伏見鳥羽等に轉戰して功あり同五年侍從番長に同七年陸軍大佐に任じ參謀局御用掛兼勤を仰付られ同八年教導團長に同十年西南役起るや征討總督本營に於て師團參謀を仰付られ各地に苦戰して遂に平定の功を奏す戰爭中少將に任せられ同十五年朝鮮へ差遣され使命を全して歸朝勅語を賜はる同十六年中將に任じ西部監軍部長に補し同二十一年第四師團長に補し同二十四年陸軍大臣に同二十五年樞密顧問官に任じ同二十八年臺灣副總督を仰付られ特に現役に復せられ同年拓殖務大臣兼陸軍大臣に任ぜらる同三十一年再び樞密顧問官に任ぜらる明治四年正四位に同二十年勳一等に同十七年勳功に依り華族に列し子爵を授けられ同二十四年從二位に叙せらる 家族は前記の外女球麿子(明治十四年一月生)は北海道士族樺山資雄男資英に嫁し同愛子(同十八年二月生)は鹿兒島縣士族德永球麿子の指定家督相續人となれり | |
住所・電話番号 | 東京市麴町區紀尾井町七 電話番町二八八 | |
参照人物(親類) | 伯爵吉井幸藏 | |
参照次数 | 1 | |
読み | たかしま とものすけ | |
別名 | 昭光 |